ブログ一覧

ブログ始めました

 

最適解

 

 わたしたちは日常生活において様々な物事、刻々と変化する状況に対処する際、各々が得意な分野を活かすことで、不得意な分野を補い対処しています。その解決方法は十人十色、そして各々の個性に由来しますが、様々な物事を一人で、しかも同時に、パーフェクトにこなしていく事はなかなかできません。しかし一般社会において、こうした個性に由来する問題が起こると、当事者において生き難さとして内面化されることがあります。このような問題は、社会のプロトタイプである学校社会ではもとより、多様な個性の行き交う一般社会においてより鮮明に現れて、当事者の抱える困難、課題として顕在化してきます。

 

 こうしたなか、定型教育において起こる想定外の課題ついては、いつ誰もが直面する問題として取り上げられ、様々な場において、解決すべき教育方法をめぐって多様な議論が展開されていますが、それはある程度、解決の道筋として経験、知識、常識や暗黙の了解などによって、一般社会における常識ないし、多数の利益に適うゆえに、共通の認識内で処理されることで、自身に関わることとして議論が深まり、大多数の問題意識の共有がなされて、最大公約数的な状態、母集団の規模によって、マジョリティーの関心を引き寄せて解決に向かうものです。ただ一方で、想定外の課題が、多数の知識、経験、承認の範囲外にある場合において、多くの関心を引かないまま、議論は深まらず、適切な知識、認識は共有されないままで、結果として無関心、誤解、偏見のフィルターを通して、適切な共有がなされず、当事者性の欠いた”確からしい解答”だけが増幅されていく可能性があるとすれば、どうなるのでしょうか。それは当事者を取り巻く現実的なハードルによって、困難に直面している当事者は、非当事者による何らかのバイアスに由来する無関心、無理解等に起因する二次的な課題に図らずも直面させられてしまうことで、固有の困難さが、より増幅されて引き出されてしまうことが想定されます。

 

 こうした問題にたいして、教育学分野、とりわけ学校社会では、どのように向き合っているのでしょうか。例えば、中等教育では「道徳」が教科化されました。高等科では「公共」という科目が新設されています。。そして福祉学分野では「合理的配慮」に基づく人権意識に関する研究の進展、人権意識の高まりによって、マイノリティーへの関心は日々高まってきています。ただハードとしての価値観、概念的な枠組みとしてみると、なんとも脆弱であるという感覚が拭えません。というのも、例えば、インクルーシブ教育、ユニバーサルデザイン、ソーシャルインクルージョンという言葉がありますが、これもまた、先述のように、実質的にソフトの課題に置き換えてみれば、一般社会での様々な障壁、とりわけ非当事者におけるバイアス等が内在していく性質の問題として、母集団の規模から、非当事者性における恣意性に基く見解、価値観が形成されやすい土壌があるという前提と、そのマジョリティーを代弁する機会や場が無数にある以上、各々において、きわめて恣意性の高い意識として内面化されることで普遍化され、やがて概念的に共有化されていくものとなりますが、そのベクトルが大きいものであるとすれば、”確からしい解答”が常識となる可能性を秘める、極めて大きな問題といえるでしょう。

 そこを乗り越えていく方法は、常に他者的な視点に立ち、正しい知識によって理解していく経験を積み重ね、その努力を継続していくことなのですが、先述のように、こうした多様な個性によって表れる個性豊かな事象に対して、他者的な理解、及び知識の欠如によって、理解の促進のための判断材料が乏しいなかで、各々の固有の経験にねざした先入観、一般常識といった物差しが先行し補完されてしまえば、情報化社会に進展とともに、不正確で断片的な情報による安易な認識は、容易に拡充される環境とも相まって、たとえそれが意図せざるか否かは別としても、やがて”漠然とした確からしい最適解”が形成されていくことは自明であり、こうなると、当事者的な視角は、適切に形成されずに、”最適解として疑わないバイアス”ばかりが一人歩きして、その母集団が大きいゆえに、実態を反映しない最適解が、相互作用によって増幅されて生み出されることになります。

 

 もっとも、ハードとしての掛け声の充実や進展が、結果として、それが大事であるということの意味において、おおいに意義があり重要であることにはいうまでもないことです。ただ普遍的に当事者性を含有する視覚まで共有されて、網羅されることは、決して担保されていません。ゆえに上記のスローガンの先行した枠組みの設定の持つ意味として、共通認識の特質が極めて恣意性を帯びた脆弱な環境において、フライング的に理念的なハードを持ち込む事で、非当事者的な視覚の欠如ないし脆弱性によって理想的な形で機能しないまま、暫定的で演繹的に最適解が示されることで、困難な問題は形を変えて増幅され、新たな問題を引き起す芽になるのではないか、ということが懸念されるのです。

 

 以上のような視角に立てば、正確性の欠けた多数的な共通認識と、様々なバイアス等のフィルターを通過するなかで、教育学や福祉学などの分野において向き合うべき喫緊の課題として浮上するのは、非当事者において、具体的かつ現実的にどのように、他者的視点の重要性に気づき、隣人の困難に向き合い、そして他者を巻き込み、他者的視点で共生に向かうために、そうした土壌を普遍化し、醸成していけるのかという事になるでしょう。次回は、共生について考えます。








2018年02月28日

共生

共生とはなにか  

 

 日本社会では、「暗黙の了解」という言葉や、「あ・うんの呼吸」、「以心伝心」という言葉があります。こうした言葉は、御周知のとおり、あえて言葉を使用しなくても、相手との意思相通が果たせるという意味ですが、欧米社会においては、YES、NOなどの意思表示をはっきりと示さないと、その人の意思が存在しないこととして、取り扱われるようです。ゆえに「そこをなんとか」という言葉は、存在しないのは当然といえるでしょう。しかしながら、日本社会のコミュニティーでは、その場の状況に応じて、「気を利かせる」ということが求められるようです。「空気を読む」といった日常のさまざまな場面で使われる言葉をみても明らかでしょう。なるほど、そうした論理のもとで「共生」していくには、「あ・うんの呼吸」で、相手の状況を把握することが必要なのかもしれません。

 

ということは、「気が利く」ということは、十分条件ではなく、必要条件として評価を受けることが想定され、「機転が利く」といったような態度を示すことが、まず前提としてあるうえで、「一般常識」という言葉に言い換えられ、いつしか「暗黙の了解」として捉えられて、評価されていくのでしょう。  となると、次に起こりうる事は、例えば仕事の場ならば、「ビジネスですから」という大義名分があるので、「気が利かない」という言葉によって、ただ自分の意思が伝わらないことを、逸失利益であるというように考えて、(例えば、自身の説明が、手を抜いたために分かりにくい、あるいは相手にわかるように伝わらなかったというようなことは考えもせずに、棚に上げて、、、)相手を責める。そうした中で、やれ社会通念上とか、一般常識のない相手であるからとして認識して、「相手のせいにする」ことを、正当化する態度を、当然視してしまうということが、起きうる事態といえるでしょう。そして「共生」に適していないという伝家の宝刀、正義の切り札が持ち出される。こうした恣意的な論理よって正当化され、同質性を特徴とした多数派によって形成されていくなか、数の論理から、”やはり正しい”と確信し、もちろん実際には、錯覚しているだけかもしれないのに、多数派という存在によって、”正しいという安堵”がなされて、それを根拠として“確からしい正当性”が形成されていくのです。
 

 そもそも多数や常識といった価値観が、必ずしも絶対的な正しい価値を示しているわけではありません。それは時代によっても変わり、地域や文化、民族によっても変わる相対的なものであるわけですが、近代的な価値観である民主主義社会において、多数という正義による価値観は、学校教育の影響から「公民的資質」の要素として、つねに意識させられてきました。何らかが、多数の共生意識を阻害する要素として認識されると、”多数派”という根拠によって、それが確固たる地位として確立されて、その論理が飛躍し、マジョリティーの認識を逸脱した態度は、異質なものとして受け入れられた時、とりわけ日本社会では、共同体社会や世間といった和を大切にする文化の中で、ついには排除や差別の対象となってしまうのです。こうした態度には、それぞれの保身や利益も重なり合い、マジョリティー側に立つ“確からしい認識”から、やがて“確からしい正当性”にすり替わり、数の論理の安堵とともに刷り込まれます。
 

 こうした態度の特質を捉えると多様性の発見や、相対的な認識を前提とせずに、物事を客観的に他者的な立場で捉えるのではなくて、主観的に自身のフィルターを通して、”大多数による正当性”によって担保されることで、恣意的に物事を解釈しようとしていることに、疑いを持たない状態となってしまう特徴があります。では、こうした態度を生まないためにはどうすればよいのか。例えば、経験や知識といった自分のフィルターを通して物事を考える際、つねに他者的な視点を前提とすることは、いうまでもなく求められることでしょうか。しかし、人は誰もが完ぺきではありませんから、向き合う側の意識として必要なことは、困難に直面している当事者性について、自分のフィルターでは、理解することが困難な場合においても、多様な価値観を相対的に捉えて相手の立場を聴き、他者の価値観や置かれた立場を尊重することで、相手は何を求めて訴えかけているのかということを意識したり、当事者の困難さの代弁者として何が必要であるのかということを、考えてみる必要があるということなのでしょう。

 
 当事者性をもって寄り添うことは、何よりも必要なことであり、それは、教育、福祉、医療にかかわらず、政治や経済においても、一人一人の価値に気づき、尊重していく態度が求められるのはいうまでもなく、決して掛け声だけでなくて、求められていく必要があるのでしょう。そもそも多様性の受容とはいったい何でしょうか。他者の視点に立つということは、どういうことでしょうか。少なくとも、自分の価値観を一方的に押し付けて、相手の立場を思いやるということではなさそうです。なぜならその物差しが、一度測り間違えば、それはただの傲慢になってしまうからです。そして痛手を負った相手が、必ずしも、苦しい顔をしているとは限りません。だからこそ、当事者の声を聴き取ること、そして当事者性に寄り添うということが必要なのではないかということを、どのように学び取っていけるかということを含めて、今一度、「共生」という時代の前提として議論をしてもよさそうです。

 

 共生とはなにか、共生に適するとされる暗黙の了解を、相手に強制することが、共生の前提となっていないか。
福祉は多様な価値を受けとめるところから始まり、困難を抱える人の立場に立ち、寄り添い、その人らしい生活を実践していくものであり、教育は多様な価値が、さまざまな矛盾のなかで、しぶとくしなやかに生きていくための環境や力を授けるものである、とすれば、それは生きていくための力として、車の両輪のようなものでしょう。そして教育は、たえず変化し続ける社会と向き合い、学びなおし(アンラーン)をすること、それは、刻一刻と移り変わる社会で、生きていくために欠かせない知恵ということでしょう。共生という概念が、現代社会において一般化しつつあるなか、中学校での「道徳」、高等学校での「公共」そして、大学での「人権教育」において、今一度、多様性の進展した社会の在り方について、「共生」という観点から、「問い」として立ててみることが、必要なのかもしれません。そこで多様性について考える前に、「共生」という観点から一度、みえないものみるというテーマ、「問い」を立てて、その後、多様性について考えます。

2018年05月25日

みえないものをみる

 無作為という作為

 

 福祉分野では、おそらくは知らぬものがいない著名な「自己実現、エンパワーメント」という概念。この概念は、1970年代に日本の教育学界に登場し、やがて福祉界にも浸透していきました。この言葉の由来は、ブラジルの教育家である パウロ・フレイレの実践から生まれたもので、筆者の恩師でもある教育学者の楠原彰らによって輸入・翻訳され、今から40年前に日本の教育学界に紹介されました。その彼の言葉の中で、印象に残っているものとして「孤絶」という概念があり、「知った以上は関わってゆく」という人生哲学のような言葉がありますす。そんな言葉に関連して、今回はみえないものをみるという「問い」を立て、ある詩人の言葉を紹介いたします。

 

「だが、どこかで一縷の臨みをかけ、真夏の蒸し暑い夜もまた、どんよりとした真冬の空の下で、ぽつんと、きっと誰も気づくことはない。いつものことは、いつのまにか雑踏の中で、何度叫んでも、何事もなかったように掻き消されてゆく。また、ひとつ諦念が増幅する。すれ違う大人たちの笑い声が聞こえる。何事もなかったように日常が過ぎてゆく。」

 

 いうなれば四面楚歌な状態といえばよいのでしょうか、いや違う。どうもしっくり来ない。結果的には、そうみえますが、これは適切な表現ではなさそうです。なぜなら、四面を見渡しても、誰も楚歌を歌っているようには、表面上はみえないからです。しかし、みえないけれど、なんとなく四面で楚歌に囲まれているような気がしてなりません。そのあたりにクローズアップすると、きっと「何事もなかったように」というのが、この詩のポイントでしょうか。聴こえている声が「いつも掻き消されていった」そんな感じでしょう。誰も気づいていないのではなく、気づいた上で、気づかないことを装う。いいかえれば、それは“無関心の暴力”あるいは“大人の事情”によって、何事もなかったように過ぎてゆかされる日々といえます。偶然や自然の流れにみせかけられた、無作為という作為、おそらくそんな感じで間違いないといえるでしょう。こうしたケースを想定すると、四面楚歌な状態であるというより「いじめ問題」の研究の第一人者で、社会学者の森田洋司氏の提唱した概念「いじめの四層構造」の外側の聴衆の位置にいるような人たちに囲まれている状態のようであるという解釈がしっくり来ます。

 

「いじめの存在」に気づいても、気づかないフリをする傍観者たち、心ない無関心たち、これが孤絶、isolationを生み出す構造の本質といえるでしょう。こうした状況を強いられている人は、いたるところで苦痛を感じ、疎外を強いられ、周囲の無関心のよる、組織的な力によって魂の叫びは、掻き消されてしまう。かかる状況は、個人の人権、尊厳を著しく傷つける行為であり、到底許されることではありませんが、こうした周囲に囲まれてしまえば、事態が発覚するのは至難のこと、日大のアメフト事件のように、内部の既得権の壁に阻まれてしまいみえにくいという構造的な体質が想定されます。ということは詩人のケースは、個人の選択性の及ぶ「孤独」ではなく、教育学者である楠原氏の言葉である排除された状態への悲観、「孤絶」という表現がしっくりくる気がします。ただもっといえば、これは仕組まれた「孤絶」であり、社会においては、そんなことがいつまでも、許されるわけはありません。

 

 日本語には、誠実に生きた先人の知恵として、「因果応報」という言葉があります。例えば既得権の保護を優先するために、無作為にみせかけた作為のある傍観者、無関心たちには、それ相応の結果が訪れることでしょう。声をあげ続ければ、必ずいつか届くものです。抑圧下にあるからといって決して諦めてはいけません。ドリカムの歌にありました「何度でも」という歌、そんな心境が大事です。支援者たちは、みえにくくされているもの、みえないもの、みえない問題の芽にいち早く気づくかどうか、それが問われています。背後に隠れたSOS、その本質を的確に、しかも迅速に捉えられるか、そして行動できるかどうか。支援者において、それは必要要件ではなく絶対要件としなければならないことです。次回は、多様性について考えます。

2018年06月17日

新たな一年

支援の羅針盤

 

 昨年のオープン以来、あおばは何かと忙しい日々を過ごして来ました。正確には9ヶ月間、あおばでたくさんの方と出会い、そして出会った利用者さんから、改めてひとりの人生というものを考えさせられた一年でもありました。こうしたなかで、私自身がたえず向き合ってきたのが支援という言葉です。就労継続支援といっても、一つとして同じ人生がないように同じ支援というものはありませんが、支援をさせていただくなかで感じたことや意識してきたことは、利用者さんごとに抱えている問題が、生きづらさと向き合うということは同じであっても、生きづらさの質が多様に異なるなかで、正解を簡単に求めてはいけないことを、常に意識しながら支援してきました。これは、今の局面では求められる支援かもしれないとしても、この状況では、異なる支援が必要になるということであり、そのあたりを念頭に置きつつ支援方針を整理し、一緒に考えながら歩んでいくなかで、何かのヒントがみえてくる。そしてそれをヒントにして、次の問題の糸口を手繰り寄せるようにして解きほぐす。とはいってもまた一度、立ち止まってまた振り返り、みつめなおすというような支援の柔軟性が求められてきました。

 

 人はきっと誰もがみなそうですが、さまざまな困難さを冷静に受けとめて向き合うことは、決して容易なことではありません。時間を要する問題もあります。あせらずゆっくりとなのです。前向きに生きることは大切なことですが、心のどこかに余裕を持つために、人生という止まることのないエスカレーターの上で、時に後ろを振り返ることもみつめなおすなかで必要なことかもしれません。

 

 現代社会が情報化社会の進展とともに知識、情報として生きづらさや固有の困難さが理解される土壌が切り開かれ、多様な生き方を尊重していくという価値観が、地域社会やなんらかのコミュニティーにおいて、一つのライフスタイルとして肯定されて、社会において共有されつつある時代であるのだとするならば、ひとが受容されながらいきていくということの必要性について、その具体像として、一般的に社会ではどのように向き合い位置づけられているのか、ないし位置づけられるのかということを想定しみると、この社会はヒト、もの、情報、サービスなどが分業化し、高度に合理化の進んだ社会システムにおいて専門性や分業といった壁によって、本来であれば教育、介護など時間と手間をかけていかなければならないことが希薄になる素地が整えられているなか、隣人の顔が見えにくい向き合いにくい社会構造の進展によって、知識や情報は共通認識としてあるものの、肝心の価値観を共有する相手とどのような関係、向き合い方をすればよいのかというように、お互いの関係性を築く機会は、少なくなりつつある社会であるといえるでしょう。

 

 そうならば、たとえ尊重すべきことは知っていても、果たして隣人がどのようなひとか知らなければ、向き合うことの大切さを知っていても、どのように向き合えばよいのか分からないものであるし、何を尊重すればよいのかは分からないというような状況は、決して想像に難くはありません。しかし、こうした本末転倒な状態においても、ひとによってはヒトと関係なんか築かなくとも、便利になったこの時代をうまく生きられるというヒトもいるかもしれません。でもやはり、ひととひとの関係のあり方とは、「袖振り合うのも多少の縁」「向こう三軒両隣」などの言葉があるように、古き時代を振り返れば、決して現代のような関係性がすべてではありませんでした。

 

 平成という時代を振り返れば、バブルの余韻を残す平成の幕開けにまもない1995年、経団連は「新時代の日本的経営」という方針を掲げて、雇用構造の大きな変化を起こしました。そして2000年代以降、非正規雇用の割合は増え続けて、いまや40%にまでなりました。こうした影響によって格差社会が着々と進展し続けるなか、もはやいうまでもない常識であるといわんばかりに、一世を風靡した勝ち組や負け組みといった言葉も、いまや気にも留められません。けれど、人の心はいつの世も、うれしいことはうれしい。楽しいことは楽しい。つらいことはつらく、苦しく悲しいものでしょう。決して平等な社会ではないからゆえなのか、平等の必要性や公正さが求められる機会も増えてきているのかもしれません。

 

日本社会は2020年代に差し掛かり、少子高齢化が進展する一方、特別支援教育を取りまく環境は、どのようになっているのでしょうか。現在、特別なニーズにたいする研究の進展とともに、特別支援学校の数は増加の一途をたどっています。地域や人と人との関係性の希薄化したコミュニティーがが、もはや当たり前のようになるなかで、固有の生きづらさを抱えつつ生きている人が増えているなかで、皮肉なことに、ひととひととの関係性を構築することの困難さが叫ばれる時代、社会構造のさらなる進展をどのように受けとめるのか、今更ながら問われているのかもしれません。

 

 ただ生きづらさを抱えながら支援を必要としているひとは増えていても、教育や福祉という分野において、また支援というものに正解や終わりはありません。教え、受けとめ、寄り添い、見守るなかで、そして私たちは気づかされていく。私たちはこれまで、生きづらさを抱える人たちが、その生きづらさをひとりで抱え込まずに生きていけるように、ともに考えて、とことん受けとめて、寄り添っていくという方針の下で支援し実践してまいりました。私たちにみえなかった何かを気づかされ、みえかかった糸口を手繰り寄せ、支援の羅針盤として生かしてきました。平成という時代が終わりを告げつつ、生きづらさや混沌さがみえにくい社会と時世のなかで、次なる時代がどのような価値観を採用しようとも、私たちは、これまでと変わらない姿勢で支援し続け、生きづらさを抱えている利用者さんの居場所となり、ともに困難な時代をたしかに歩んでいきたいと考えています。

 

長くなりましたが、本年も宜しくお願いいたします。

2019年01月23日

自立に向けた支援とはなにか。

 支援と一口にいっても、万人に応用できる理論的な支援はなく、支援する側にとって、知識や学問は、その状況を知るための羅針盤でしかありません。しかもそれは本格的な支援に入るための入口ですらないのです。支援の入口とは、困難さがなにかを探す中で対話し、考え、問題を共有しようとするところか始まるとして、とりわけ、日々多感な年代の20代の方々と接していると、元来彼らは個性豊かで才能に満ちあふれ、けれどきっかけがつかめないでいるという状態ですから、日々、彼らをどのようにして、社会の入口に送るかを日々考えて支援を実践していくのです。旧態的社会では、右に倣えとばかりに最大公約数的な発想を前提として、全教科及第点という発想が求められる。戦後教育、管理教育の悪癖ですが、これはよさを消す能力とでも言い換えられるかもしれません。個性や才能が花開くには、一朝一夕には開花しないものですが。余裕のない及第点社会において、豊かな個性や才能は潰され、入口にたどり着く前に、呼吸を荒くしていては、呑み込まれてしまうことになってしまいます。もっとも何らかの余裕さを身につけて、おずおずと挑み続けることが、おそらくはこの厳しい社会では必要ですが、ここはしぶとくしなやかにこなすタフさが必要となるには、まだ若さもあり、挫けてしまうことはよくあります。そうした中で、必要なキーワードとは自己有用感であります。もっとも成功体験の積み重ねだけでは、ヒトとしては、薄っぺらいものになってしまうでしょう。困難さや孤独を噛み締めながら、それでも一歩踏み出せるか、自己肯定感を積み上げる地道な一歩一歩は、自分だけの経験です。しかし一方で、この時代、多様なあり方を受け入れている社会もあります。就労においてもその限りではなく、フリーランスで生きていくという選択肢や、資格を身につけてじぶんらしく活躍していくことも可能なわけです。社会であわせなければ、居場所はないと考えるのではなく、社会にあわせなくても、自分のやり方で生き抜くというのもありなのです。もっとも、努力だけしていればいいとか、一朝一夕に答えや結果が出るものではないですが、、ただ時代の価値観は変わり続けています。その分チャンスもあるといえるでしょう。例えばコロナの影響でテレワークが推奨される現在、在宅勤務という選択肢や人と係ることの少ない仕事というものも、働き方改革や仕事の多様化によって存在感を拡大させています。

 

 一方で旧来的な社会とはどのようなものでしょうか。近年はとりわけ権利擁護や、人権意識が叫ばれるものの、一方で、90年代後半から雇用の調整弁とした就職氷河期世代、日比谷派遣村をつくりだしたのも歴史が証明する事実で、自分たちのことさえ守られればよいという総意が、50-80問題を引き起こし、この社会の未熟さを示す負の遺産となっています。つまり社会は常に未成熟であり、気まぐれであり、完全ではないものであるという証左といえるでしょう。最近の事例を挙げると、コロナ問題での行政や政治の向き合い方は、場当たり的な感じで、東京都の小池知事の対応をみていると、オリンピック延期後の感染者の増加、数字のマジックともいえる意図的な暴発は、何らかの利権のために生命を犠牲にさせようとする意図にさえ感じるものでありました。こうした事例を通じて考えると、若者が目指す社会とは、自分勝手な未成熟な人びとが構成している共同体ともいえます。ならば社会とは、そこに参加しようとしているマイノリティーの方の足かせで、社会自体がマイノリティーの方の障壁であるといえ、自立を阻む障害物であるかのようであります。そうしたなかで自立とはなにか、自立はどうあるべきかを考える必要があるのではないか。社会が必ずしも平等で絶対的な正義なわけではないのは、差別やいじめ、格差は助長し貧困はなくならないことがその証明となっているし、自衛しながら自立する。そんな視点も支援に反映していくことが求められる時代となっているのかもしれないのではないでしょうか。

2020年03月30日

困難な時代を生きるために

 青天の霹靂ともいえるコロナの蔓延、後世に語り継がれるであろう世界恐慌以来の令和大恐慌、グローバリズムを軸とした時代は混迷し、世界的規模で大量の失業者が生み出される、そんな時代に突入した感じがしています。2020年という時期は、後の時代からみれば大きな時代の変わり目、パラダイムの転換点ではないか。私はこれまで主に、近現代における社会の構造、地域生活における様々な有機的事象、そこから生じる人々への影響、地域社会における課題を、歴史学による手法と視角で検証してきましたが、コロナを契機として、人と人との関わりは様変わりしていくといえるのかもしれない。こうした時代のルールの変化は、地域社会や福祉制度、公への基礎とするをする教育など総てにリンクしているものです。

 これまで日本型の就労・雇用・産業構造はどのようなものであったのでしょうか。戦後社会を就労を中心に概観すると、大きく4つに区分できます。第一区分の時代、この時期の戦後繁栄は、1951年の講和会議を契機に、国際社会へ復帰、失われたものを再構築する過程でもたらされました。戦後復興期のインフラの整備、各種、第一次産業における専業形態、各種産業の保護制度、朝鮮戦争での需要等、様々な需要があるなかで構築され、次ぐ60年代からの高度経済成長は、科学技術革新、生活インフラの普及、物質的豊かさが充実していく時代が訪れ、モータリゼーションの到来と製造業の拡大、高速道、鉄道網などの輸送インフラの整備、またベットタウンの建設、スーパーが生活インフラとして整備されました。首都圏の拡大を呑み込み産業構造は需要ともに人手不足を生み、一般就労は増大しました。就労形態でみると第一次産業の象徴である専業農家の割合は、兼業農家の増加とともに縮小、産業構造の変化が起こり75年以降の安定成長期には、一億層中流というような社会構造となりました。

 その社会構造に大きなパラダイムシフトが起きたのは、第二区分の時代の就労・産業構造によって起こりました。この変化は1985年のプラザ合意後の社会で、70年代から80年代半ばにかけての安定、半導体などでリードし、ジャパンアズNO1と評された80年代半ば以降に、一ドル=360円から120円の時代が訪れ、これにより輸出を軸とした日本の製造業は、低賃金の労働力を求めた結果、、中国などの海外に向上を移転、製造業は空洞化し、就労・産業構造は、製造業からサービス業へ、こうした中、冷戦の終焉と東欧革命が起こり、日本の経済政策では為替変動の影響によって資金の大量流入が起こりました。

 90年初頭、バブル崩壊が起こり、第三区分の時代が到来となりました。企業の就労形態は、社員は家族であるといった一億層中流を保障した雇用形態である「日本的経営の象徴」松下モデルは崩壊、新たな就労の形態として95年経団連は、「新時代の日本的経営」として雇用の調整弁の役割が必要となり、非正規雇用の増大の基礎的条件が示されました。企業の都合による雇用の調整弁は、社会で切り捨てられていく就労構造に転換した子とを意味し、98年、金融危機、大企業の倒産も相まって、団塊ジュニア世代を中心にロストジェネレーション世代を生み出されました。そして3万4000人にも登る自殺者を出す社会となりました。「勝ち組・負け組」に象徴される時代、IT革命の華やかさの一方、ニューヨークでテロが起こり、格差とライフスタイルの多様化は進みました。リーマン不況が起こった08年12月、就労・労働分野でみれば、派遣社員が派遣切りにあった日比谷派遣村のように、基本的人権に係るような事件(未熟な就労・雇用システムないし企業社会の露呈)も起きました。

 それから10年、この社会はコロナによって大きく変化を強いられることとなりました。グローバルな分業制を基盤とするサプライチェーンは地球的規模で機能していましたが、チェーンの否定を強制するコロナによって、移動を前提とした就労によって支えられてきたシステムに疑問が生じ、人と人との隔離を促すウィルスによって、サービス業を中心とする就労の崩壊は避けられない事態となりました。国によって示された「新しい時代の生活スタイル」によって観光・飲食など人を介するサービス業は減少していくことになるのでしょう。

 

 歴史的区分をして30~35年区切りでみれば、55年体制の1955年から1990年あたりまでの上昇期、冷戦崩壊前夜の1990年から2020年までの停滞期、2020年以降の下降期と区分できます。こうした時代の就労とは、あるいは生活とはどのようなものかということを、一人一人が創造していくことが求められる時代が到来したということでしょう。そして就労支援の一翼を担う我々もまた、新たな時代の就労支援を求められるといえるのでしょうか。


 1998年他界したXのギタリストhideさん(元は美容師さん)は次のように歌っています。

 「何にもないってこと、そりゃ、なんでもありってこと」(Rocket dive)


 誰もが何らかの不安を抱えながら生きざるをえないそんな時代。でも焦る必要はないと思います。不確定な時代を自分らしく健やかに生きるために、それだけでいい。混沌とした困難な時代をともに歩んで生きましょう。



2020年05月10日

パラダイムシフト


パラダイムシフト


 近日、安倍内閣の発令による東京、神奈川、千葉、埼玉、大坂、福岡など大都市圏を対象とした緊急事態宣言発令から10日が過ぎました。その後、全国へ拡大したこの宣言の背景は、ご周知の通り、既に都市部を中心としてコロナ疎開が始まるなかで、地方の医療インフラの医療崩壊を念頭に、感染拡大の影響をゴールデンウィークの移動に際して、最小限に食い止めるための自粛を促している宣言だといわれています。こうした中で、働き方の根本が問われ就労のあり方とは、これからどのように変わっていくのかということを根本的に問われているのかもしれなせん。

 

 本来、医療や福祉の現場はもとより、社会的なインフラを維持させている人たちを除き、ロックダウンをするべきであると個人的にはおもいましたが、それを果たせない要素として資本主義社会と民主主義体制があるという見解があることは、報道などでご周知の通りでしょう。今回の宣言の効果の見極め、及び見解について、今後の福祉事業所の運営の責任等において、直接的に影響を及ぼすものであるため、事業者としても次の判断を迫られる場面は、ゴールデンウィーク明け、新たなフェイズを迎える中で起こりえるとかんがえています。利用者さんの安全をどのように担保するかがプライオリティーであり、判断材料として、福祉関係者、医療系関係者、歴史、社会

教育分野関係者の専門性の見地から、密に連絡(テレワークで三密ではない)を取りあい、メールや電話などで、知見に基く現状分析と意見交換を行いました。辿りついた見解としていえることは、これまでの政権の政策過程を分析すると、民主主義と資本主義の掛け算による弱点が露呈しているのではないかという意見が多くありましたが、民主主義体制で、強制的な措置はできないという特質として、自分を律した成熟した市民のあり方、行動によってなんらかの事態の方向が決まるという観点です。現在は経済活動の自粛要請によって、休業と補償のセットは難しい問題となっていますが、現実的に民間事業者は、生活や生存のために、経済活動を遮断するための担保、補償がなければ、経済活動は続けざるをえなく、生活のためにやむなく乗る満員電車は、その証左といえるでしょう。

 COVID- 19に関しては、アメリカをはじめとして様々な調査が今後行われるようですが、初動段階においてWHOと結託し中共の意図的とも言えるような隠蔽によるものが、世界中に蔓延した被害として重要視するべきであろうという意見、事態が落ち着いたら欧米を中心に糾弾されることになるという意見がありました。意見交換した医療関係者からの話では、COVIDー19との戦いは、治療薬やワクチンができるまでタイムラグあるため、いつ終戦を迎えるのかという見通しはたたないなか、みえない敵がいつ襲うか分からない不安のなかで、民間人を巻き込むものであるという指摘がありました。ハーバード大学などの研究によれば、2022年までこの戦いは継続されるという話もありますが、約8割のアメリカ国民が中国の責任を糾弾する様相を呈しWHOへの拠出を停止する事態となる中、欧米諸国による中国に対する賠償問題、訴訟にまで発展しており、2018年からつづいてきた米中貿易戦争の次なる段階の戦いに入っていくという連続性という視点についての指摘もあがりました。

 経済・経営などを専門とする人の見解では、1929年の世界大恐慌をはるかに上回る規模で起こる可能性が指摘されていました。実体経済のカタストルフは、リーマンなどの金融経済の危機とは根本的に質が違うものであり、モノ・ヒト・カネ需要の喪失であることの重さは計り知れないという指摘があり、戦後の歴史教育を専門とする立場では、未知のウィルスの前で、医療体制は崩壊、結局、国は守ってはくれないし、自衛が重要であり、自分の身は自分で守るしかない。その意味であっけなかったセーフティーネットとしての信頼への懐疑性、という印象がについて複数の同意が寄せられました。平和な日本とは、もはや幻想であり過去であるのかもしれません。ゆえに新しい時代に対応して生きていかなければならないのではないかという意見は総じてあって、政権は国難をなんとかしようとしているけれども、医療、検査体制の崩壊、マスク二枚、すずめの涙の給付金などをみても、必ずしも生命が守られないということは、今回のコロナをめぐる中で顕在化しているのは自明なことであり、ゆえに国にあまり期待をしてはいけないのではないか、一人一人が社会を考えていかなければならないのではないかという意見がありました。とすれば、国のあり方、憲法や安全保障のあり方を、これからの日本を背負う若者たちが、今一度しっかりと考える時にきているのかもしれません。何が足らなくて何が必要なのか。戦後教育が新たな段階にきていることは自明なことでしょう。米中という強大な国のなかで、日本をどのように守るべきかという意見が総じて多く、大きなパラダイムシフトが起こる中で、生命の危機に晒されているからこそ、自分のこととして受けとめられるのではないかという意見がありました。

 

 確かに念仏のように平和を唱えるだけでは未来に無責任であるし、具体的に平和をどう維持するか。平和を訴え、戦争の悲惨さを学ぶだけの戦後教育の限界点は明らかでしょう。平和のために争いがうまれる根本、本質に切り込まなければならない。なぜ差別や格差やいじめはなくならずに、人類は悲惨な過ちに向かっていくのか。平和は如何にして崩されていくのか、その要因はなにかを追究する姿勢が必要であり、逆説的に平和を維持する方法を見つけ出していく作業が、よりいっそう必要なのではないか 。平和とはなにかという根源的な問いから、平和的な社会はどのように作り維持されるべきかという社会や政治に関する関心が重要なのでしょう。平和を維持するために、多様な価値観を尊重すること、他者のことを想像して、その人と、その周りにいる人たちの平和をどのように維持するかということ、それはきっと人の英智を結集して、強制力のない緊急事態宣言を一人一人がどう受け止めて行動していけるかということに他なりません。人と人とがウィルスの撲滅のために協力すれば、ウィルスは宿主しなしに生存できません。自制心、他者的な視点で行動できるか、それはいじめや差別の撲滅と同義であるかもしれません。人種、性別、年齢、価値観、生き方が違っても、協力できることはある。いじめや差別、格差の蔓延する社会で、その潜在力が試されているのかもしれません。

2020年04月19日

2020年05月10日

チャレンジ

 とある会にて先日、日頃お世話になっている(なにからなにまでお世話になりっぱなし)NPO法人の10周年イベントに出席してきました。県福大の名誉教授の松為先生と御一緒のテーブルだったので、たくさんお話ししました。筆者の母校の話から、先生の学生時代の話、日々の支援のこと、発達障がいのかたを取り巻く現状など、たくさん意見交換をさせていただきました。つい食べることも忘れて、小一時間経ちっぱなしで支援の話をさせていただいたのですが、支援の方向性は間違いではないことを話してくれたので、少し安堵しました。美容とB型は日本で聞いたことないということです。さて今年は新たな展開、あおばは音楽・アニメ事業を形にしたいところです。初音ミクで大量に作曲中、you tuberになりたいひと、音楽好きな人、ユニット、バンドやりたい人ぜひお手伝いください。現在、万騎が原48参加メンバー募集中、コロナの自粛が落ち着いて、 いくつかいい作品が完成したら、あおば音楽レーベルから発表、そんな日が来ますように。。打倒、乃木坂、欅坂、あいみょん、米津、髭ダンでいきます笑

2020年05月10日

時代のルール

 

 社会に出た子どもたちは、理不尽な社会矛盾とどのように向き合っていけばいいのか。目まぐるしく移り変わる社会、この問題は、子どもを取り巻く社会に限らず、教育を取り巻く現実においても同様、そして日々の雑事に忙殺されていく人たちすべてに、社会矛盾という問題は襲い掛かってきます。この問題についての明快な答えは、今のところ全くもって出ていません。こうした問題に対峙するために、子どもたちの身近な社会である学校では、社会を知るための場所として、生きるための様々な状況を体験し、生き抜くための道具を身につけ、よりよく生きるヒントを学んでいます。しかし大事な学びの場を支える現場は、教員が多くの仕事を抱え忙殺され、孤立無援となったり疲弊している声を、教育系の研究者や教員、元教員の方と情報交換するたびに耳にします。多くの矛盾、現場の苦労と日々向き合い、孤軍奮闘、理想ばかりでは成り立たない現実、孤立、うつ病、精神疾患、チーム学校の必要性は、支える仕組みなどの構築を含めて、議論のたびに浮かび上がる問題です。

 

 私自身は、教育と福祉の間で、学校を巣立とうとしている子どもたちや、学校を巣立った後に、社会の荒波、厳しい局面で格闘している人とともに、矛盾に満ちたの荒波へと対峙するの同志として生きています。私自身、社会の矛盾、現実の壁にぶつかってばかりいます。けれど社会に出れば、正解は自分で作り出すしかありません。学んだことを生かして切り抜けてゆくのが理想ですが、現実は、そううまくいかないものです。めまぐるしく変化する現代社会において、不信、不安、困難は想定内の事象ばかりではないなか、人生という航海のなかで、不正確な羅針盤を握り締め、暗中模索のなかで足を前に進めていく。そうしたなかで居場所は大きな拠り所です。私は学生時代、人生のヒントや、なにかを得ようとして学校にいっていたわけではなかった。出席日数、単位ぎりぎりで高校を卒業し、単位を取れなくて留年する夢を未だにみることもあり、少なくても私にとって学校は、居場所ではなかった。楽しいこともありましたが、いじめを受けることもあったし、あまり好きではなかった。好きな音楽に身を沈潜させ、日々をやり過ごしていたことを思い出します。

 

 めまぐるしく変化する現代社会において、時代は絶え間なく新たな価値観のアップデートを要求し、そこにキャッチアップしなければならない切迫感が、人を焦らせ駆り立てています。むろん模範解答などどこにもないし、あってもすぐに陳腐化し、今日の正解は、明日の不正解へとあっという間に変化していく。荒波の航海のなかで居場所はみつけられず、孤独や不安は何重にも重なり、気づくと身動きはもう出来ない。いつしか自分を守るために、ひきこもるか、ひきこもれなくても、できるだけ心を閉ざす。知っているようで知らない人たちが、町を行き交い、うわべのコミュニケーションは成熟し多様化し、空気の読み合いで疲労困憊している。そんなふうに感じることがあります。こうした社会病理を、一つ一つ解きほぐしていくことは、複雑にもつれ合うさまざまな事象に根ざしていて困難であるけれど、やらなければならない時代の課題なのではないか。そんな風に考えています。新たな時代の新たな働き方、労働観、価値観、心の居場所を作り出すために、どうしたらいいのかと日々、悶々と課題に対峙しています。

 

 コロナ以後の社会、これまでの価値観は変容を余儀なくされていて、就労系事業者としては、新たな時代のルールに基づく就労の可能性を模索し、価値観や考え方も含め、そこへの向き合い方を提示していかなければならないと感じています。 就労支援は、ただ労働環境の技術や知識を得るための機会の提供で終わってはいけないのであり、支援の大枠で、メンタル面の支援を軸に、労働に資する心のあり方、困難をどのようにやり過ごすかということも含め、健やかに過ごしていくためのマインドを軸に据えて、支援していく必要があると思います。ならば支援に一定の正解やおわりはありません。目まぐるしく変化する外部環境に対して、人の心は常に変化し、困難に対峙し揺れ動いていくものだからです。

 

 支援に求められるの役割の一つとして、わたしたちは、ただ働くために生きるのではなく、生きるために働く意味、ライフスタイルの選択、困難に対峙する心のあり方、健やかに歩むためのヒント、自助的な気づきを、人とのつながりなかで掴むことを基軸に据え、そこに資する素材を、学び取っていく場を提供することがあります。

 

 人生の選択に正解はなく、答えのない無情の世界で、自分なりに答えを出す力を得るために、不安を抱えながら日々模索することが、次の一歩につながっていくのではないか。

 私と同世代のアイコン浜崎あゆみさんは、次のように歌っています。

  「居場所がなかった。見つからなかった。未来には期待できるのか分からずに」「A song for XX」

 

 

2020年05月20日

無関心な隣人

 最近、孤独から絶望へ向かう著名人の孤絶を耳にすることが多い。元KARAのク・ハラさん、元プロレスラーの木村花さん、そして三浦春馬さん、、、。彼らを孤独にさせたものは何か。人との関係のなかで、彼らを孤独へと追い込んだもの、絶望に向かわせた無情の世界に、なにか思うところがあった。ひとが、この世にたったひとり佇んでいるとしたら、孤独という概念はきっと生まれることはない。だが、ひとは他者との関係性のなかで、なんとか生きているのだとすれば、他者の無関心の嵐のなかで、孤独の芽は生まれ続ける。そして絶望に変わる。

 三浦春馬さんのニュースで、恩師の一人、教育学者の楠原彰さんの言葉を思い出した。

 以下、著書からの引用です。

  「私たちには、出会っているのに見えない、見ようとしない隣人たちがいる。日頃目を合わせたり、挨      拶を交わしたりしているのだが、その人たちの内面のつぶやきや叫びに、立ち止まって耳を傾けたりする    ことはまずない。街のなかでも、路上でも、飲み屋やレストランでも、電車やバスのなかでも」

  「教室で、廊下で、校庭で、学食で……、やさしい顔した学生たちが談笑しあっている。まるで隣に同性愛    者も、在日コリアンも、留学生も、死にたくなるほどのイジメを受けてきた学友も、リストカットで苦し    んでいる学生も、ひきこもり経験をもつ人も、一人もいないかのように。」

 楠原彰著「学ぶ、向きあう、生きる 大学での「学びほぐし(アンラーン)」──精神の地動説のほうへ」(太郎次郎社エディタス 、2013.3)

2020年07月20日

半沢直樹

 最近、半沢直樹をみている。社会の至る場面における縮図であるこのドラマは、脚本もさることながら、キャストが役者ぞろいゆえか、各シーンの強弱や濃淡に説得力が加わっている。さて、このドラマの感想から想起されるのが、人生とは煩悩との葛藤、悩みの連続であるということである。悩みという言葉から連想すると、葛藤、不安、焦り、孤独、孤立、悲観、否定的な言葉ばかりが思いつくが、そのカウンターパートをなしているのは、野心、野望、驕り、上位、差別、排除、その肯定の論理である。その辺りは最近の話題の中心、帝国航空をめぐる展開で巧みに表現されていくが、そこでは個人であれ法人であれ、半沢によって痛み分けを中心として、最大公約数的な利益が実現される。その代償として、何らかの選択をするしかない厳しい問題を抱えている。一方、煩悩の権化である権力や野望は、巧みな正当性を振りかざし、自己のためだけの論理によって、何らかの利益の拡大を企てられるが、当事者以外にはみえにくく、淘汰されていることさえ気づかれにくく遂行していくことを目的としている。そこを半沢がスパッと切り裂くのが痛快である。時は止まってくれないし、生きるとは選択の連続である。むろん考え抜いた選択が、いつも正しいとは限らない。物語では、頭取が失敗の責任を取った形だが、生きるために決断を下すことは避けられない。半沢で描かれる社会の様々な矛盾の共通項として、保身、出世、他人事、既得権益、利己主義、家庭不和、時を超えて絶え間なく社会に萌芽していく歪みである。半沢を取り巻く野心のある人びとは、その目的を巧みに蔽いかくし、時に立場を入れ替え、建前と本音をすり替え、最終的に、何らかの不利益が、不作為の作為のような自然の成り行きで押しつけられていく構造的特徴を持っている。そうすると、最終的にどこに不利益がたどり着き、半沢を取り巻く賢者の仮面を被った偽善者たちが何を得るのかが自ずと判明する。彼は、その本質を超越的能力で見抜きすっぱ抜いていく痛快さで、現実社会では、なかなか露呈しない社会矛盾を豪快に切り裂いてくれる。というわけで来週の展開も目が離せないのである。

2020年08月27日

これからの就労を考える定例会からの報告

 先日、ある福祉就労系法人の理事と、FR教育関連の関係者の2人と私で定例会を行った。題目は、「コロナ時代の経済と経営」、そしてそのベクトル上にあるこれからの就労のあり方について、「変化の兆しをしっかりと掴む眼」というテーマで意見交換をした。そのなかの議論から興味深いテーマをいくつか抜粋します。

 

 時代の価値観の変化にどう対峙するか。これはいつの時代も生きるために対峙しなくてはならない普遍的なテーマですが、今回は平成の歴史を振り返りながら自由で闊達な議論が展開されました。かつて漫画やゲームなどの娯楽というものは、「そんなものばかりみていないで、やっていないで勉強しなさい。」という勉強を妨げる対象であった。しかし、時代の価値観は変わり、そうした文化は今や世界から、アニメを生み出した日本として評価されている。あの頃、勉強もそっちのけでマンガやゲームに勤しんだ才能豊かなクリエーターの数々の系譜が、次の時代を作ったといえる。一方で、例えば工業、高度経済成長期に社会インフラの構築を担うべく存在であったが、いつしか日本の御家芸であったはずのものづくり産業は、プラザ合意以降、製造業の空洞化、海外へと拠点が移っていく。こうした中、かつて花形産業を裾野で支えた高校の工業科の技術は、時代の要請として低迷し、担い手不足と相まって斜陽化、学校では技工系高校の統廃合、更には単位制へと変遷した。工業技術の数々の系譜は、担い手を失ってしまったのだが、そうしたなかで失ったものを、再び復活させるにはどうしたらよいのだろうか。

 

 そこで喚起されるべきは探究心の育成であるという意見が教育関係から出された。確かにそのビジョンの数々の系譜を知る担い手の育成が必要であろう。そして呼応する形で、それを動かす原動力として、リーダーシップが喚起される必要があるということを経営学の立場の関係者から出された。そうした意見を基に考えると、私は学生時代、理系は苦手の割に好きな方で惑星や宇宙分野に関心を持っていた。のち産業技術の歴史、工業、土木、自然、人文地理など具体的分野に関心を移して、院では関心分野を活かし系譜の担い手、伝達者としての教育学に転身した。院に進学する前、教職科目で高校工業の免許科目を取得したが、必修の職業指導の科目である「これからの企業管理とプロフェッショナル育成」という長い名前の講座で興味深いことを学んだ事を思い出した。

 

 それはリーダーシップ論である。この講座では「人を巻き込むにはどうしたらいいか」ということを教官に問われた。当時、リーダーの資質は重要であるということはわかったが、所詮は学生であり、具体的なビジョンとしては描き出せなかった。これは理系も文系も教育学も関係ない普遍的な概念であるから、今、それに応えるならば人を巻き込むには最低限、それなりの魅力を兼ね備えた人物でなければならないということだろう。そして物事に対して的確な状況判断、更に迅速に捉えなければならない。まるで半沢直樹のようであるが、これを担保するためには、いささかソフトの精度を上げることはもちろんの事、前提条件として、やはりそれなりのビジョンを描けなければ、大義として結実することはないだろう。かつての工業科は時代の花形であったが、重要であるにもかかわらず、時代を経て軽視されるようになった。もっとも技術を活かしきるビジョンがなかっただけともいえる。

 

 時代が唐突に価値観を変えることは、歴史を参照すれば自明なことではあるが、コロナのようにパラダイムシフトが唐突に起こると、就労の在り方も変化を余儀なくされるのである。時系列的に法や制度は後について来るものであるから、まずそれに先んじて問題点が浮上し、それを精緻化しなければならない時期がまもなく訪れるだろう。今はその過渡であり、胎動期である。

 

 教育と歴史関係者の意見では、かつて企業でも社交的な人は、企業人の必要要件として、内向性よりもプラスの評価を得ていたが、コロナの時代においては、それも過去の遺産と化したという意見があった。価値観の逆転といったところか、企業の経営で言えば弱みが強みになるということである。漫画やゲームなどの話は冒頭で触れたが、価値観の逆転についてさらにみれば、30年前流行ったCMをご存知だろうか(ちなみに私は小学生でした。)リゲインの「24時間戦えますか」というCMがはやったが、こうした意識は、時代の変遷とともにブラック企業の象徴として、今や社会の共通敵として認識されるようになった。強みは大きな弱点になるということを時代が証明しているのである。かつて半導体といえば、日本や米国のシリコンバレーがその中心であったが、いつしか覇権は中国のファーウェイになり、そして最新の国際情勢における情報産業技術ICTの覇権が変わり、台湾系企業の独占による米国内へ移転が進む情勢となっている。米中摩擦が進展する中、国内産業界では、製造業の国内回帰が叫ばれている。

 

 遠くない未来、一旦は斜陽化し軽視されていた工業技術への関心が高まる時代が訪れる予感がする。それはイノベーションの要請とともに来訪することになるが、こうした時代の要請にどのようにキャッチアップするか、企業や個人は、それぞれの強みと弱みを巧みに使い分けて、しなやかに生き抜くことが求められてくるのだろう。忘れてはならないのは、めまぐるしく変わる価値観の移相である。事業者としては、時代に資する就労のあり方、就労に対すスタンス及び、それに伴うメンタルのあり方について、たとえプロトタイプに過ぎないとしても、モデルを作り柔軟で普遍性を伴った形で、無意識的に質的支援に反映されていくことが問われることになるのだろう。旧態依然の制度が刷新される過程における因習や弊害は、砂上の楼閣である。遠くない未来、コロナ時代に対応する価値観の形成は、時代の要請として喫緊且つ普遍的課題として俎上に上げられ、私たち事業者にも突き付けられる現実的課題となろう。

 

 今後も定例会の議題は、定期的にまとめていきたいと思います。

2020年08月27日

半沢最終回 正義の鉄槌

 今週の半沢直樹も面白かったですね。聖人の顔をしたアウトロー(箕部幹事長)の所業を成敗する怒涛の展開でした。昔でいえば、大菩薩峠もそういうネタでした。そんなわけで今日は正義、社会における法(ルール)について考えます。

 さて、社会生活営む国家の構成員は、「人に迷惑をかけない」という当たり前の概念の下、日々生活を送っている。法は秩序を保ち、法治国家の根幹を成す。市民は取り決め、契約よって他者の人権を互いに保障する。つまりルールの遵守は、近代市民の要素の前提となっている。 

 

 社会科教育学では教育の側から「公民的資質」という概念の下、未来の近代市民、子どもたちを育てている。学校は成熟した近代市民の一員の形成を担うが、このように社会契約説のもとにした民主主義の根幹を担保するものがルールの遵守である。しかしルールは破られることもある。半沢直樹でいえば、強大な権力を司り、(本来、国民の公僕であるにもかかわらず、尊大な態度でいる箕部幹事長のように)人類の英知=人びとが一定の取り決めの下で幸せを享受するための法、契約を捻じ曲げようとする向きが、どのコミュニティにも一定数存在している。彼らは、手前勝手な恣意的な論理を押し付けるための材料の粗捜しがライフワークなのである。

 例えば、半沢直樹に登場する箕部幹事長である。箕部に象徴されるような聖人の仮面を被ったアウトローな人物は、得意技の土下座に象徴されるように手段を選ばない。職務怠慢、職権乱用、彼らの所業を表現する言葉はさまざまであるが、彼らは自分たちに都合の悪い証拠や発言は捻り潰し、傍若無人に反故、捏造を繰り返し、あの手この手を尽くし、ああいえばこういうという風に自分の立場を押し通そうとすることが特徴である。箕部幹事長や紀本常務らを中心に半沢直樹のストーリーを捉えると、帝国航空の問題でも謀略のために、周到に根回しをしている様子がこれまでの回でも度々みられるが、そこでは何らかの甘いニンジンに惹きつけられ、自分の立場に有利に立ち回ろうとする小さかしい仲間たちとともに奔走(暗躍)していく。

 彼らの特徴は、何らかの要職で必ず正義を振りかざす大義名分を持つ立場にあり、本質的に社会的に信用や名声、権力を内在させている。そうなると、つい人格も伴っているものだと錯覚しがちであるが、裏でルールを破り、事実を捻じ曲げて私腹を肥やし、自分の立場に有利にするための主張を通すための策略を立てている。例えば古典的戦法として、一見もっともな理屈を駆使し、自分たちに不利な論点に及べば、巧みにすり替え、相手の失点を突くという手法を取るといったように、もはや社会の構成員、人として反模範的な人で、彼らは被害を与えているという自覚、贖罪の意識は皆無である。自分たちに有利な大義名分を捻り出し、正論を展開されれば開き直って非論理的に、保身に奔走する。ここまでいってしまえば、正義の楯の前でもはや完敗だが、箕部幹事長や紀本常務のように最後の悪あがきをする輩もいる。だが皮肉なことに、彼らの真の目的は隠せない。目的に向けた論理を必ず展開しなければならないからである。結果に向って一連の物語を始めなければならないからだ。稚拙さや巧みさなどの手法の差こそあれ、恣意的なストーリーの恣意的なハッピーエンドへ向かう過程が、皮肉なことにゴールの位置を正確に指し示し、ねらいが自ずと露呈してしまうからである。みえないものをみるためには、なにか特別なことをする必要はない。不誠実が勝手に飛び込んでくるからである。誠実さの反対に対峙するものは不誠実である。あとは他者に証拠として証明するのに必要なのは渡真利のスマホくらいである。相手が信用に値するか否かを測る物差しとしては最適である。

 さて、こうした中で置いてきぼりとなり、人知れず苦しんでいるのは一体誰なのだろうか。何事もしわ寄せが必然的に弱いところへと向かうことは世の常である。こころない不法さ、職務怠慢、職責放棄の集積、正義に背き、答えが分かっていても動こうとしない現実世界の所業においても、箕部や紀本などと、その取り巻きのようなこころない人たちは、この世に一定数存在し人々を傷つけている。しかしそれは、半沢直樹とその仲間たちのような正義によって、やがて駆逐される時代がくるのかもしれない。パラダイムシフトは、正義、公正のポピュリズムを欺くことができなくなる段階でいとも簡単に瓦解してきたことは、いつか来た道を辿れば自明なことである。(例えば、東欧革命など20世紀末の世界史がそれを証明しているだろう。)社会現象と呼ばれるような同作のヒットは、そんな矛盾に満ちた社会への、他でもない人びとの心の中に充満する矛盾への総意にすぎない。

 半沢直樹の直面しているような幾多の試練を、私自身、法人に置きかえると感じることはよくある。それにめげても仕方がない。渡真利や黒崎のように応援をしてくれる人たちもいる。どの業界でも同じである。そうしたなかで半沢のように、企業は常に全責任を持って人々を守る覚悟が問われていることは自明な事である。私自身、何らかの矛盾に直面することは多々あるが、現実的に矛盾に満ちたこの無情な世界で、半沢のように一時間で華麗に痛快に解決していくことはできないが、あらゆる理不尽さにたいして決して諦め、屈することはない。この矛盾に満ち、そして無秩序で理不尽な社会の荒波で、数多の矛盾を感じているすべてのひととともに、私たちは真摯に懸命に生き抜いているからである。

 

 正義の法が私たちの生活を守っている。

 来週は半沢直樹も最終回、個人的に、中野渡頭取がどんな行動を取るか楽しみですね。

2020年09月23日

いつかの日常

 休日、研究資料や文献の整理を行った。書庫整理日を設けて定期的にやらないと資料で山済みになってしまうので、〆切の納期が迫っている案件を優先しつつ、ひまをみつけて取り掛かっている。荒井由美の「卒業写真」を聞きながら書庫を整理していたら、偶然、高校の卒業アルバムに遭遇した。埃を振り払いページを開いたら、懐かしい顔と再開した。本日は誠に私事ながら、高校時代の思い出がよみがえってきたので、10代の頃、自分自身が何を考えていたかふりかえって、記しておこうと思う。高校卒業してからもうだいぶ月日が経った。第一志望に合格できず投げやりだった高校一年、イギリスのロックバンドの「The Who」を聞きながら「明日こそは辞めよう」と思っては先延ばしにし、中学の友達に影響されバイクの免許を取ろうとしていたある日の下校時、自販機の前で止められたバイクの友達の後ろでジュースを飲みながら跨っていたら、先生に遭遇して一週間の停学となったことがあった。学校はバイク通学禁止、もちろん自分は免許もなく、徒歩での通学で乗って来たわけではなかったが、後ろに跨っただけで停学になった。乗っていないことを証明できず、連帯責任となった。理不尽だったが、あの時、なぜ抗議できなかったかはわからない。何から何まで投げやりだったのかもしれない。その後、学校とは意図的に距離を置いた。中学の友達や他の高校の友人とバンドを組んだり、一緒に過ごす時間が多くなっていた。受験生になると代ゼミに通い、予備校のない日は一人で勉強しているほうがいいので、近所の地区センターに通い、土曜は自主休校にした。その頃、遅刻は年間で100日は越え、欠席も40日近かったことを覚えている。学校に一番遅く行き、一番早く帰ることを日課としていた。だが、そのように学校が嫌いな私がやがて教免を取り、院に進学し教育学の研究へと向かうことになる。人生は分からない。

 

 あの頃の仲間たちは、いま元気にしているのかもう分かる術はない。携帯のなかった時代、いつしか日々の生活に追われ、それぞれが互いに違う人生を刻んでいくなかで、連絡先が分からなくなってしまった人もいる。高校三年の夏、今はなき渋谷の「GIGANTIC」というライブハウスで、高校生活最後のライブをしたことがあった。鮮明に覚えているのは、高校三年の夏の最後のライブの帰り道、東横線の武蔵小杉駅で、ライブをみに来ていたクラスメートが体調を崩したことがあった。降りる前から気にかけていたもう一人の友人が心配そうに、電車を唐突に途中下車したシーン、楽屋入口にあった真っ赤なコカコーラのベンチでのやりとり、楽屋ではなく客席を通って上がる小さなステージ、26年経った今でも覚えているのはこれだけである。あの日、何の曲を演奏したのか分からないし、他にみに来てくれたひとがいたはずだがまったく定かではない。今となってはもはやどんなメンバーがいたのかすら定かではない。元気に過ごしているのだろうか。意外と記憶に残っているのは、いつかのいつもと変わらない日常の一コマだったりする。

 

 バンド活動は惰性でやっていてもしかたがないし、すでにライブハウスで活動していた友人たちのバンド活動に触発されて、自分たちは新人バンドの登竜門であるホットウェーブという音楽イベントに出場することを目標にして練習に励んでいた。バイトのない日は学校から帰ると、ピアノに向かい、スタジオではドラムを叩き、仲間とオリジナルの楽曲を製作していたが、メンバーチェンジを繰り返し、中々落ち着いて活動ができなかったバンドも結局、メンバーが受験時期を向かえ一旦休止となった。友人のバンドは約一名の受験者をのぞき続行した。(その友人は大学で福祉学に進み、やがて中央法規から本を出版するまでになる。)他のメンバーは進学しなかったが、のちレコード会社と契約してプロとなった。そんな中、自分はやりきった感もなく、時間切れのような感覚で、後ろ髪を引かれながら納得させ、中途半端なまま封印して大学受験へと向かった。それからは勉強漬けの日々を送ることになる。以降の記憶はほとんど抜け落ちている。インディーズからCDをリリースし、メジャーからも声がかかってライブハウスで活躍する友人を尻目に、バンドが復活することはなかった。

 そうしたなか、将来、学校の教員を目指して北教大に進むつもりだというバンド関係の知人に影響されたのか、「それなら自分も」と、おぼろげながら教員の道を志した。今思うと、これが転機だったのだろう。しばらく経った頃、理由を思い浮かべて、「なぜ教員になりたいのか」と自問した時、「嫌いな学校に通う生徒に寄り添えるような教師がいたら、、、」という答えが浮かんだ。私の原点にあった感覚は、私自身の理想を求めたのかもしれない。ゆえに普通に学校の教員になろうとしている人とはどこか違っていたはずである。私のように学校によい思い出があまりないというのは、全体からみたら少数派であろう。自分の居場所ではないとして心を閉ざして、正確には馴染もうとしなかっただけなのかもしれない。そんな折、山田洋次監督の「学校」という映画をみたことがあった。「こういう世界もあるなら、辞めてしまうのもありだったのかもな」と卒業してからふと思ったことがあった。その後、「古狸」のような教員は心のどこかでひっかかり、定時制で教育実習を志願することになる。一方で音楽、曲作りはこれまでずっと続けてきた。音楽を封印した高校三年の夏のライブから、いつか復活する時が来るかもしれないとおもって作り続けたのかもしれない。音楽は、あの頃の私の系譜、そして原点であった。そして時を越えて原点であり続けている。あの頃に作った曲を久しぶりに弾いて、そして、あれから止まったままの音を取り戻すために、そしてこれからも新しい曲を作るだろう。

 

A man is not finished when he is defeated. He is finished when he quits.

(人間、負けたらおわりなのではない。やめたらおわりなのだ。)byリチャード・M・ニクソン

2020年09月28日

今週の出来事

 今週はエディ-ヴァンへイレンが亡くなったという一報が入った。なんともショックである。竹内結子の訃報もそうだったが、今年はなんとも残念なニュースがつづく感じがする。謹んでご冥福をお祈りしたい。そうしたなかヴァンへイレンのCDを久しぶりに聞いていたら、隣にあったジャムというバンドのCDをみつけ、こちらも久しぶりにかけてみた。

 

 高校1年の頃よく聞いていたのは「TheWho」というロックバンドであったが、そのフォロワーで70年代後半から80年代にかけて活躍した「TheJam」というイギリスのバンドに心を惹かれていく時期があった。特に好きだったのは「悪意という名の街」という曲である。モータウン系のリズムを取り入れて軽快に進んでゆくこの曲は、その軽快さとは裏腹に、社会の片隅で明らかになりにくい厳しい現実に打ちひしがれ、恨めしそうになりながらも決して諦めず、一縷の希望をもって進んでいこうとする若者の躍動が、軽快なリズムによって増長されていく。そんな曲である。日々、経営という仕事をしていると、矛盾に満ち汚れた権力と野望に翻弄される、そんな理不尽な状況に晒されることがある。

 この世界は正義という名の仮面の下で、決して見過ごしてはならなく、許されるべきではない行為が、あたかも正義であるかのように大手を振るっている。彼らは巧みな大義名分を駆使して結託し、隠された悪意を押し通そうとしていく。他者の立場などどうでもよいかのように、、。理不尽な世界に直面している人たちは、この世界に沢山いる。誰にも気づかれない、そんな時もあるだろう。だが諦めるなかれ、運よく正義の楯に救われることがあるかもしれない。いや運よくではなく必然的に救われるだろうといっても過言ではない。私たちの社会には正義と真実を尊重する物差しと天秤が張り巡らされている。悪意の目論見は、成熟した市民社会の正義によって必然的に駆逐されていくことになるものだ。誠心誠意尽くしていれば、きっと誰かがみていてくれて手を差し伸べてくれる。私たちの社会には、法の下の平等という正義と未来への希望がある。そんな風に感じた一週間だった。応援してくれるすべての人の恩に報いるために、未来に少しでも多くの希望を繋げていくために、これからも日々まい進していく。

「Cos time is short and life is cruel but it's up to us to change this town called malice.change this town called malice.」By Poul Weller

「あっという間に時は過ぎるものだ。そして人生は悪意に満ち、悪巧みをして苦痛を与えても平気なやつもいて残酷だけど、でもこの街を変えるのは俺たちにかかっている。この悪意という名の街を、、」

2020年10月11日

関係性の希薄な社会で

 一般社団法人FR教育福祉会では、FRの設立理念と同じ志を持つ団体とともに、各種研修の一貫として、テーマ別の共同学習会や意見交換会を定期的に開催している。今回は不定期会合の扱いではあるが、「リーガルマインドー制度と契約ー」という演題で、事務手続きに関する意見交換会を中心に開催した。参加団体が広域であったため、関係者の中間に位置するFR本部で行われた。参加団体は東京都にある生活介護、県央に事業所を展開する就B、市内の就B、又市内の相談系の施設など各立場による複数関係者、県外自治体も含めて5つの団体が意見交換会を開催した。

 ちなみに次回定例会は、来月の講演会の後、共同学習会を開催する運びとなっている。内容については後日、当ブログでアップするのでご期待ください。

 話は戻って、今回のテーマは、各事業所においても共通する内容であるので、かなり現実的で、シビアで闊達な意見が上がった。今回は、普段の「直接支援とは全く関係のないテーマ」で、法律や規則に基づく事務手続きに関する各事業所における対応について、複数の視点で捉えて、浮かびあがった問題点などを元に議論し、一般的事例をもとに詳細な検討が行われた。要約すればリーガルマインドは空気や水のように私たち社会に欠かせない正義の剣であるということだ。そこで会合に集まった事業者において、書面は重要であるということを再認識した。だが代償として書類の洪水に直面するという状態は避けられない。いろんな部署を監督する立場の上位機関は、さぞかしご苦労が多いことか、電子書類化が進んでいるであろう昨今、紙面処理は少なくなっているだろうけど、すべて電子化はできないだろうし、そうなると置き場所もとる。とくに行政機関などでは、私たちの扱う書類の量の比ではないだろう。各方面で不始末も多い昨今、紙では書類の洪水になるはずで、その管理をおもうと、「ご苦労様です、ありがとうございます」としか言いようがない。ともあれ、他の各事業者においても不合理、制度の限界や狭間で色々な問題に直面しているようだ。私自身、教育学を軸に、人文社会科学分野の横断的な研究者でもあるが、所属学会の研究発表で問題提起してもいい内容も多かった。

 閑話休題、お堅い話を離れ、最近、気になっている音楽の話。80年代を代表するギタリストであるエディーヴァンへイレンが亡くなってしまったが、いまだメンバーが健在で、70年代の音楽シーンで活躍したバンドに「The Feces」という英国のロックバンドがある。とにかくメンバーが豪華である。ヴォーカリストはロッドスチュアート、そして後に「ローリングストーンズ」のギタリストになるロンウッド、さらに「The who」のドラマーになるケニージョーンズとビックネームばかりである。だがその中に蒼々たる顔ぶれのなかで短期間ではあるが、唯一の東洋人である日本人のベーシストの山内テツがいる。山内テツは、ローリングストーンズのキースリチャーズを交えたステージで、チャックベリーの名曲「sweet little rock‘n’roller」の演奏もしている。世界で活躍している日本人は多いが、音楽シーンであまり話題にはならない。しかし50年近くも前、世界の音楽ヒーローたちの中で、活躍していたミュージシャンがいたこと、CDのジャケットをみると、ロッドやロンとテツがふざけあっている写真があったりして、なんとなく誇らしい思いがしたのであった。西洋社会において日本人は「名誉白人」であるという称号がある。もっともこの時代のルールからみれば、それ自体、「差別的な表現」である気がするが、ともあれ「臥薪嘗胆」、「イエロペリル」、「黄禍論」などの歴史用語を振り返れば、いつの時代も白人より下に位置するそんな有色人種の位置づけのなかで、3人がふざけあっている姿をみると、同じ人種でも関係性の希薄な社会で、そんな「称号」は、結局は単なる薄っぺらい記号に過ぎず、本質を示すには安っぽく言葉にすれば陳腐なものであるとに気づかされる。もっといえば、相手のことを尊重し、人権意識に富んだように表現であるかのように錯覚するが、人と人の個人的な関係性の表層を機械的にオートマチックに象徴する言葉であるとさえいえよう。言葉だけが立派で独り歩きすれば「名誉」とあるのだからと、なんとなく説得的に聞こえても、本質的には分けている時点で、とてつもない距離がある。人と人との関係性は、常識、慣習、人種などで、カテゴライズすることはできない。人と人それは本来、言葉では表現できないような感覚、計り知れない関係性の豊かさがあるのだろうとおもっている。(おわり)


2020年10月17日

侵食

 普段、他者との関係性の希薄化した社会に埋もれ生きていると、日々の色々な感覚が、何時の間にか過去の価値観へと侵食し、無意識に近い形で置き換わっていることに、はっと気づくことがある。私はセブンイレブンにいくことが多いのだが、コンビニの最先端でどのようなものがヒットしているのかを改めて意識しないまでも、生活の価値観として少しずつ、無自覚的に侵食されているようなそんな感覚である。商品開発部からみればしてやったりといったところだろう。例えば、チューブの大根おろし、鮭の切り身、冷凍のとろろから進化してパックのとろろ、と便利さの極限ともいうべき商品が、めまぐるしく変化するニーズの要請によって“所狭し”と日々進化し陳列されている。ことばで表現するならば、“煩わしいものが煩わしくないものへと刷り込まれていく”というようなものである。もっともコンビニエントは「便利さ」という意味であるから当然の帰結で、新たなスタンダードとなることへの肯定的な要素は多いが、その点ではプライバシーの保護、個人情報保護法、携帯電話の普及、パーソナルを充実させるための理想的な概念を具現化していく数多の過程と同様、人と人、点と点を繋ぐソリューションの発展は、市民の権利の伸張を実現し、文明的進化、科学技術の恩恵によってもたらされている帰結として捉えられる。

 しかし、こうした事象を、就労のあり方に関連させて位置づけてみると、必ずしもよい面だけがクローズアップされるのではないことに気づく。便利さを求める背景として、便利さが求められるのは、言い換えれば、“なんらかの余裕のなさ”から派生している”起源の要請”、つまり時代の宿命としての産物であり、そしてそれを構築し維持している人たちがいることを意味する。

 そうした“なんらかの余裕のなさ”は、一体どのあたりに起因しているのだろうか。それは、今から四半世紀前の1995年5月、経団連によって発表された「新時代の日本的経営」の報告以後のベクトルによってその概観を回顧することができる。それ自体を今更、時代の後知恵として改めて再評価する必要もないが、“柔軟な雇用を生み出すための装置”としての機能については、これまで多くの先学が指摘されている周知の事実である。ただし「柔軟さ、多様性」といった記号によって象徴される新時代の価値観が洗練されていく過程について、それらをよい意味で肯定的な価値観としてみることはできる。例えば福祉用語などで代弁するならば、「ノーマライゼーション」、「ユニバーサルデザイン」、「ソーシャルインクルージョン」といった、市民社会における未来への希望、その前提である普遍的な価値を示すような記号に置き換えられることも可能で、そうした価値は“人権意識”の高まりとともに、多様な生き方の尊重、ライフスタイルの“多様性”といったことばとともに、時代の先進性として収斂されて、昇華されていくことは自明なことであった。

 こうしたなかで、就労分野に焦点をあててみると、否定的な意味合いも含んでくる。非正規雇用の増加については、「半沢直樹」で記憶に新しい池井戸潤の「ロスジェネの逆襲」でおなじみの氷河期世代を中心に、いわゆる「フリーター」なるものが、この時期に増加したが、当該世代を「雇用の調整弁」として機能させたのは、柔軟な雇用であり、多様な雇用のあり方であった。否定的な記号として用いられることになる「柔軟性」や「多様性」は、こうした文脈においては、こころない新自由主義の体現者たちによって、結果として、当時の若者たちは低所得と不安定な身を余儀なくさせることになった。時代の絶対的ルールが、“多様性の尊重”という言葉へとまろやかに浸食し、多様なライフスタイルの一つの帰結として、たとえば「未婚、非婚、晩婚化」というような言語化がなされ、さらには「おひとりさま」など現象を肯定化するように派生した多くの言語化によって表現されるようになる。かつて、「年頃になれば結婚するものだ」というような従来型の価値観の変化は、あたかも“若者たちの文化や価値観によってもたらされた”ものであるかのように錯覚しがちであるが、原因の帰結としての結果群、相対的な実態に視点を移せば、作為者たちは、希薄化した社会をうまく活用して格差をつけ差別化し、無作為にみえる作為により他者を虐げる状態を、時代を創る神が導く道理とでもいうように、無関心の集積へと追いやることによって、その恩恵を預かる向きを代弁する数多の「御用達学者」たちによって強化している。

 

 経済学者の森永卓郎氏が2003年に「300万円時代を生き抜く経済学」を出して半信半疑のようなインパクトでもって話題になったが、2020年には「200万円時代でも楽しく暮らせます」とされている。彼は、”時代の兆候”を的確に捉えて、弱者をさらに追い込む象徴的な状態を代弁しているといえよう。これに対して作為者たちは、不満をより下方へ平準化するために受容限度を徐々に下方修正し、消去法的に模範解答として示していくので、みな価値観の変化を余儀なくされ続けている状態にあるといえる。こうした論理は、不景気の時代に突入するやいなや、正当性を主張するチャンスとばかりに過去の時代では、いつのまにか“自己責任論”というキャンペーンが張られて既成事実化し、そうした論理的帰結によって「勝ち組、負け組」という言葉が自然な形で生み出された。そしていつのまにか”疲弊したなにか”として選択肢はないまま強要され消化されていくという流れである。

 人間関係の枯渇した現代社会において、人々を覆い尽くす疲弊した諦念、余裕のなさ、焦燥感、ルサンチマン、やり場のない感情の数々、そして、外への感情だけでなく、内に向かうのやり場のない感情は、やがて自身を傷つける行為へと昇華することもある。それらは、時代への悲観とともに連鎖的に、時が経過するなかでひっそりと増幅していく。誰でも未来のみえない絶望の淵に置かれれば、ひとは孤独に苛まれて孤絶へと向かうことは、至極当然のことである。青天の霹靂ともいえるコロナの時代の到来によって、先がみえない状態がつづいているなかで、相次ぐ芸能人の自殺に向かうものが、それぞれの固有背景に由来するものであるとしても約すれば、そうした未来への絶望の象徴、証左として増幅されて起こっているようにも感じられるのではないだろうか。

 斯様な状態を強いられている人たちは、歴史を参照すれば、いつの時代においても存在していた。例えば法律家でブラジル人の教育学者であるパウロ・フレイレは、「制度化された身体」として警笛を鳴らしている。それに打ち勝とうとするフレイレの実践は、その後、大資本家のご機嫌を損ね、国外に追放されてしまうことになるが、関係性の希薄した社会でも、フレイレのように誰にでも届く“放されない手”はきっと存在する。それがたとえ巧妙に、それに出会うことを妨害され、意図的に妨げられているとしても、必ず、みている人は存在するものである。ならばこそ、このコロナの時代、芸能人や音楽人の訃報が相次ぐことで象徴される社会において、絶望の淵のなかで、明日への希望を届けるために、一体なにができていないのかということをやはり意識しなければならない時期に来ているのだろう。就労のあり方を通じて、「働くとは一体なにか」ということ。日々便利さのなかでみえにくいもの、それが実現されている向こう側において、なんらかの諦念が渦巻き、疲弊し閉塞した社会の点と点では交わらない世界の潮流を、少しずつでも捉えなければならない時機に来ているのではないだろうか。

 

 従来的な働き方の受容、あるいはそれへの無意識的な侵食は、そうであるべきであるという刷り込みによる制度や固定観念によって当然視され、その被害に気づくことも少ない。いいかえれば、それ以外の選択肢を合法的に奪われ、未来への可能性を限定され、最初から除外されて「制度化された身体」として実を結ばされている。疲弊し閉塞した世界の内実は、こうした矛盾が縦横無尽に張り巡らされ、侵食されることで実現された虚数的な世界と同義であるといえるだろう。

 

 FRは、柔軟な労働観を通じて、新たな働き方や心のあり方をもとに、この時代をしぶとくしなやかに乗り越えようとする未来におけるコロナ時代の先駆者とともに、新たな時代に対峙するために、従来型の矛盾に満ち限定された価値観に侵食されないように、未来のためのアイテムを増やすためのアシストを行っている。

2020年10月21日

「50-80問題」を語る、その功罪

 対話、コミュニケーションが希薄な社会で、人との関係を作れないことに悩む若者たちや、後輩教員たちの相談を受けることがよくあります。しかし私がそうした質問に、うまく答えられているかは実際には定かではなく、現実的には、うまく答えられることもあるけれど、必ずしもうまくやっているわけでもない。ただ、これまで就労、教育研究の場を中心に、“数多くの失敗”をしてきたこれまでの私の人生岐路が、“成功のための叩き台”として機能し、人生における“失敗例の数々”を、先学としての教訓とするなら、極めて多くの事例、豊富な経験を有しているといえるかもしれない。そのなかで難しく感じるのが、相手の心に向き合うことで、これが一番難しいことであると思う。会話をすればいいと思うが、これは簡単なようで難しい。対話とは“真の言葉”を交わしていくことで成立するものだけれど、これは、そう簡単にはいかない。

 その理由は、常に相手との距離、対話、心の距離や信頼関係があるからである。どこかで建前や予定調和、その場限りのやりとりとなれば、相手の心は決して動かないものである。そして相手の感情に最大限に向き合い配慮をしなければならないといっても、それも適切にできているか定かではなく、無論、結果が付いてくるか定かではない、みえないものである。ただこれまでの経験からいえることは、悩み事を取りまいている本質は、さまざまな課題が入り組み、それぞれの直面している固有の現実に深く根ざしていて簡単ではないが、たとえなかなか解決できないとしても直接的に関わり、その一瞬、その瞬間、その問題に、真摯な態度で向かい合うことで、新しいなにかがはじまるとすれば、決して無駄なことはないともいえる。これまで、仕事とプライベートのなかで、人と関わり、いろいろな立場の人と向き合ってきたけれど、振り返れば、いろいろな悩み事を聞いてきたというよりも、悩み事を目撃してきたと表現したほうがよいかもしれない。簡単には当事者の直面する問題を解決することができない。だからこそ、解決に向けて、向き合い続けてなければならない継続性が問われるわけである。


 誰にも知られたくない悩みについて語る際、どんな人にも人権、尊厳があることへの配慮への議論がある。そこで今回の本題は、当事者以外が当事者を取りまく問題を語る功罪である。尊厳に配慮することは、当事者において誰にも知られたくはないものへも当然のこと含まれる。例えば、福祉現場の周辺でも、有識者を招き「当事者と向き合う○○」とか、氷河期世代の新たな問題、「50-80問題の本質」とかいった講演や学習会が催され、“当事者の現実を知る”“問題点を考える”とかいうようなワークショップやシンポジウムが、いくつもあったりする。実際に、私が所属する関連の学会でもよくある演題である。そうした取り組み自体をすべて否定するわけではないが、そのなかでロストジェネレーション世代以外が、力説している場面に遭遇することもある。しかし、こうした状況について、あえて厳しいことをいってしまえば、「当事者抜きに、当事者に対する尊厳を含んで、評論的な立ち位置で一般論を援用し、問題意識を論じるものが集まって、本質的な問題の解決のために取り組んでいることが、現実的に、具体的に、しかも可及的速やかに、当事者ないし当事者世代の実情の打開に資する支援策となるのであろうか」という点では、大いに疑問が残るのである。こういってしまえば、研究者の端くれとしては、もはや自己否定のようにも聞こえるが、私自身が研究界隈に身を置き関連しているからこそ、学問上、研究上の業績が、皮肉なことに“当事者不在”かつ理論先行の“机上の空論”になりがちであることが、多々あることを目撃しているためで、こうした陥穽は、実現性に乏しい非現実性を生み出し、本質の解決を疎外する盲点として突きつけられる問題である。

 事実、こうした問題は、一般的にマイナーな学問領域だが、同時代を歴史学の手法を用い研究する学問領域の現代史学分野において、有名な“昭和史論争 ”なる論争があり、この論理の典型的事例として指摘できる。この論争は、当事者不在の議論による、当事者疎外の矛盾点を突く事例である。「昭和史論争」は、昭和という時代の総括に起因する主題で、ことの発端は、昭和30年に岩波文庫から刊行された遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』(岩波書店、1955)で描かれた“昭和”というものが、“そこに確かに生活していた人々の営為が全く描かれずに置き去りにされたままの、当事者が不在のまま総括されて、国家や制度から論じられていく”、歴史学の手法に対する亀井勝一郎の問題提起にはじまる論争であった。こうした提起を受けて、歴史学者たちは、その他、歴史学者などの反論を“止揚”するかたちで、初版は絶版となり、改訂版として遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史〔新版〕』 岩波書店〈岩波新書(青版)355〉、1959年が刊行された経緯 がある。

 もっとも、シンポジウムやワークショップにおける“啓蒙や啓発”問題関心“の普及という活動は、関心のある者たちによる状況の把握、情報の入手先として有益で、その意味では一定の評価はなされるべきである。だがここで、ベクトルが異なる問題点が浮上する。もっとも評価できる点として、参加する人や関心のある人は、当事者やそうした立場に理解を寄せるサポーターで、演題に関心を寄せ、解決していかなければならないという意識を共有しているので、啓蒙や啓発という視点では、半ば目的を達成している。そしてシンポジウムの”情報通“から“情報や知識”を効率的に仕入れる機会、さらには関連書、最近は新書も手軽に入手でき、専門書を参照すれば、さらに情報の精度も上げられるというように、啓蒙、問題点の普及において、問題解決への糸口として重要な役割を果たしているといえる。

 だが一方、デメリットも存在する。「昭和史論争」のように、問題関心が、“取り上げる側によって偏ってしまう”ことが指摘できる。実際には、“当事者がどのように置かれている”かということは、当事者の数だけ“状況”が異なり、困難に直面している人の数だけ存在し、上述のように開催する意義はあるものの、ワークショップやシンポジウムで取り上げられる数、程度では、判断、理解において、まかないきれない問題がある。ワークショップやシンポジウムなどでは時間的制約もあり、性質として偏ってしまうことは仕方のないことではあるが、現実的には個別的ケースで、それぞれの個の人生の多様な帰納法的問題の集積を、演繹的なベクトルとして落としてしまう、捨象されて早合点してしまう性質の問題が浮かび上がることは指摘できる。

 即ち、それぞれが求められる必要な支援の質も、リアルタイムで無数の事例で異なるなか、議論で共有した問題は、すでに過去の遺物となる場合がある。それを解決するのは、当事者の現実と日々出会い、個々に異なるシビアな現実を、目撃することしか具体的な解決の糸口は掴み出せない。それも納得の行く形で見つけ出せるかはわからないものである。いずれにせよ、冒頭にふれた直接的な対話に乏しい状態で、“机上の空論”の拡大によって、問題関心の公約数、総意が、演繹的に導かれたとしても、かつての昭和史論争のように、“人々のここの営為、言われえないような問題”が抜け落ちてしまう危険性があるといえるのである。

 なぜいえるのか。それは、私自身が“氷河期世代のど真ん中”の世代であり、10年先にある、ロストジェネレーション周辺にある「50-80問題」の当事者であるために、一当事者としてとくにいえることである。もちろん、私の事例が、その本質の全体を要約しているわけではない。私の事例は、90年代後半から2010年代まで、不安定な雇用で生活をつないでいた身で、院に進学したが、最初の“就職に失敗”し、研究における雇用の調整弁のような身分で食いつなぎ、非正規の悲哀とともに、日々を悶々と生きている中、平成時代の半分くらい、“未来に光明がみえず”に過ごしてきた経緯があり、ポスドクで光明がみえない友人もたくさいんいた。そうしたなかで若い頃、正規雇用の友人たちがとても眩しく感じた。20代前半、今思えば複雑な気分で、将来への期待と不安が渦巻いて寝付けない夜も多かった。苦しかったが、“そうは感じていない”ように装い、自分自身は問題がないかのように振舞っていたが、当時のルールは、自身の問題としての議論が優勢で、“自己責任”で済まそうとする時代であった。当世代ならば少なからず、雇用制度や構造的欠陥に翻弄された経験、いい知れぬ過去、そして、そこには当然、人としての人権、尊厳があるものである。

 “自分探し”という表現や、その帰結として“自己責任論”として刷り込まれた時代に、「勝ち組、負け組」ということばに象徴されるような無常の世界が、「時代のルール」とされるなか、当時、「新自由主義」体制が、市民社会の目指す総意として、社会の構成員による公正な選挙によって、“社会の正義”とされ、合法的な手続きによって肯定化されたのだから、その意味では仕方がないのかもしれない。多数決による正義とは少数派にとっては残酷な結果を導き出す。大げさかもしれないが49%の正義は、合法的に切り捨てられているのである。ここに福音の配分における非平等性をして、操作できる民主主義なる制度の限界があるといえる。だが未成熟な正義の、そのしわ寄せは、2000万人の世代人口のロスジェネレーションの抱える「50-80問題」として浮かび上がるのは、早晩自明なことで、社会が問題から逃げても、現実は追いかけてくるものである。こうしたなか、シンポジウムや学会などで、“身分の保証された”有識者たちが、懇切丁寧に熱弁をふるって、“自分自身の関連する問題”であるとして、当事者たちと議論や問題関心の共有がなされていると理解したとしても、現実として、困っている人たちの心で共感されているかはわからないものである。生活への福音となるのが実際に、“いつなのか”は定かではないし、またそうした福音が“実現されるか”すら”定か”ではないからである。この25年間に及んで、この問題の芽は常にあったが、掛け声先行のきらいがあった印象がある。ともあれ実態の改善に乏しければ、当事者の心に響くわけはない。指摘されても解決できていない社会の構造的問題であったからこそ「就職氷河期問題」が、「50-80問題」として就職から親の老後を含んだ問題へとマイナーチェンジした面もあろう。いずれにせよ本質的に、ロスジェネを取りまく社会問題が、四半世紀にわたり解決をみいだせない背景としてあるのは、当事者の実情に寄与する中身が不在で、あるいは意図的な不在による「建前」の論議で現象として済まされてきたことなども、問題の本質が改善されてこなかった証左といえよう。近代市民社会において、正当な民主主義の手続きを経て、「新自由主義」体制によって生じた雇用構造的な宿命に起因する特定の世代を取り巻く問題が、それを作り出してきた民意や社会の構成員によって論じられるのであれば、自己矛盾、いいかえれば自己否定もはなはだしいといわざるをえない。
 
 10年に1回くらい、氷河期世代を救済するための公務員の募集に氷河期世代枠として150名程度の枠が設けられるが、そこで1万人の応募があったという現象は、ここ20年で2~3度くらい目撃している。1万人のうち9850人は現状のままという事である。もっとも国や行政としても“やっているんだ”感は出しているが、こうした取り組みが凡そ25年間、“雇用の調整弁”として苦しんできた人たちに届くかどうかは、全くもって定かではない。民主主義国家の限界として語るならば、選挙権を持つ市民の総意が、矛盾した制度を創り出した責任であるから、現実的に要請されるべきなのは、翻弄された者たちの立場に寄り添う意識より、社会保障も含めた施策、“現実的には、ちゃんと生活出来るような仕組みが早急に出来るか”という具体策を打ち出していくことであろう。私たちの法人や志をともにする就労系の法人は、微力ではあるが、困難な状況におかれた人たちの尊厳と自立のために、そして一人でも多くその目標を実現するために日々、具体策と向かい合っている。私個人としては、真に困っている人にはなかなか届かないような正義の背後にある世の中の矛盾を上げればきりがない。忖度しあって、手前勝手なやった感を醸しだしていれば済むかのような、建前ばかりの正義に辟易しているわけである。

 福祉制度もその一つである。分かりやすくいえば、この制度は「その人が助けてといわなければ、助けられない」という解釈をする人が多いらしい。もっとも制度の運用の手続きとしては、それも正しいのかもしれないが、物事の本質を解決するには、実際には不足している概念といえよう。実際には困っていてもSOSを表明しないひともいるからである。制度を運用する上での合理性として必要要件を満たしても、充分要件としては全く物足りない。制度を逸脱したところでもがいている人は”いない”こととされ、素通りされているからである。であれば、単に結果としてみれば、「助けられないのではなく、助けようとしないだけ」であるという”結果が出ている”ということに過ぎない。現実的にはまったく変化がないのである。それを悪用した、確信犯的なひとたちも一定数存在する。深読みすれば不利益に深入りしないようにして忖度し合っているようにしかみえない。

 法や制度を作り決めるのは市民社会の構成員だが、人は間違える動物なのであり、それも厄介なのは、意図的に間違えるフリをする人もいることであり、ゆえに法や制度は、不完全なものになる。法や制度は正義ではあるが、これが唯一の正義で、万能の剣と解釈することは危険なことであり、市民はリーガルマインドを意識して法や制度を、時代の実情に即して精査しなければならない。至らなさや、そこで埋もれている矛盾によって素通りしてしまうことを減らすためにもである。法による統治や正義は、人権を保障するための万能の剣でなければならないが、それを逸脱して運用されることもあるのが現実で、法の限界、統制できない問題もある。その現実の形として浮かび上がってくるのが「50-80問題」に象徴されるような社会病理、さまざまな問題群である。

 

 口先だけでいくら分かったかのようなことをいっても、実際の生活へ寄与しなければ、当事者にとっては、何ら意味もないことであり説得力はない。相談が難しいのは、それを含んでいるからである。たとえ啓蒙が進んだとしても、それだけでよいわけではない。実際に当事者として実際の生活に恩恵や変化がなければ、社会の認知、理解が進んでいるのに、「むしろ、なぜ解決されないのか」として、当事者はさらなる「猜疑心」や「孤独」に追いやられ、精神的にもより追い込まれていくだろう。個人の尊厳が、みえないかたちで深く傷ついていくことは自明なことである。誰にでも、触れてほしくない、思い出したくもない過去がある。未来への希望は、この瞬間の安堵が連続していくことでしか成立はしない。こうしたなかで具体的な解決や取り組みについて仕事としない評論家や有識者たちが職業として、「斯様な状況は問題であるから、周知を深めなければならない」といった問題提起に止まり、あたかも当事者目線で、「語る、功罪」は、私たちの日常に氾濫する、もっともらしい大義名分と、偽りの連帯感を醸しだす温床ともなりえるだろう。

 


2020年10月25日

過去をみつめて、未来を創るために

「過去をみつめて、やがて未来を創るために」 

 

 普段、利用希望のとくに若者たちの悩みに向き合う機会が多いことについては、以前にもこのブログで少しふれている。悩みは様々、学校の人間関係、大学のミスマッチ、就職のミスマッチ、職場の人間関係の問題などの問題を抱えて不安な日々を送っている。時に初対面2時間、話しこむこともある。それぞれが切実な問題を抱えて、そこに向き合うなかには、私自身がいつの日か経験してきた葛藤もあることだろう。若者にとって人生における葛藤とはいったいどんなことだろうか。時の経過とともに、感性も鈍くなっている(年齢とともに、感性はおとろえてはいるだろう。)とすれば、平成10年代生まれの若い世代と、どのくらい真の意味で対話できているか分からない。ただ若者の気持ちをいつかの自分自身と重ね合わせて振り返れば、同時代史的な経験則で、いつの時代にも通じるものがあることも確かである。(そしてなにより気持ちは若いつもりではある。)若い頃の悩みは混沌と漠然としていて、やり場のない鬱蒼とした感情、焦燥感、未来への期待と不安、思い描いていた理想の自分と現実、いろいろな種類の葛藤があったことがよみがえる。

将来への展望を描くなかで、思い描く自分像と社会における実情とのギャップに突き当たることは、誰もが経験していることである。この葛藤についての向き合い方は様々で、理想をみつめて戦う意欲に満ちあふれる人がいる一方、厳しいと感じる社会の現実にくじかれ、自分が自分でなくなるような、喪失感、諦念、そんな感覚にぐるぐると囚われて、不安になるそんな感じに苛まれる人もいる。若い頃の私自身を振り返れば、どちらかというと後者であった。今から20年近く前の2000年初頭、社会、とりわけ同世代に置いていかれるような、そんな感覚が20代前半であったことを思い出す。現実を閉ざしてみようとしなければ、それも決して楽なことではなく、みたくもない現実が後追いしてきて、無関心を装ってみても、引っかかるものから自由にはなれなかった。少し前向きな意識で、現実との妥協点を探してもなかなかみつからない。心と現実のすりあわせを何回も重ねながら、周りの景色だけが移り変わり、いつしか、すり合わせもうまくいかなく、周りとの差もわからないくらいになっていった。

 私の問題は就職であった。経済不況や氷河期世代だというせいにしてみても、現実は何一つ変わることはなかった。日々悶々とし、90年代後半から2010年代まで、フリーター、不安定な身分を凡そ15年近く続けた。もちろん、続けたかったわけではく、それしかなかったというのが現実的な選択肢であった。三十を過ぎても、履歴書にかける職歴といえるものもなかった。藁にもすがる思いと表現したらよいか、当然、すがる藁もなかったし、正規雇用になったことは一度もない。スーツを着た経験も、成人式と冠婚葬祭くらいでほとんどなかった。しだいに親戚とあうことも、友人と会うこともなくなっていた。ただ、「このままで終れるものか」という思いも、どこかではあった。心のどこかで燻り続けながら、三十代後半になって起業、自分で自分を雇えばいいと考えた。どうせなら、自分と同じような境遇、あるいは困難にあるなかで、日々おもいを抱えている人に、僅かばかりでも光が差し込むような、なにかできないか。以前記したように、教員を志した時の心境と似ている部分があったが、未知の部分もあった。だが人生の紆余曲折、失敗、岐路、常にその連続、それによってみえたものが少なからずあったのも事実だ。

 未来に希望を持てず、悩み、落ち込み、ふさぎこんでいる人に喫緊の優先事項として必要なのは、自己肯定感を感じることでも、自己有用感を獲得することでもない。事態はもっと切迫している。昨年10月に書き下ろした論考「50-80問題を語る、その功罪」でも触れたことだが、専門家や有識者が、講演会などで困難に直面している人への認識を訴え、問題認識を促すことは、社会における啓蒙的側面において有益であっても、喫緊の状況に迫る当事者にとっての優先事項としては不十分であることは指摘した。今、苦しんでいる当事者、例えば「50-80問題」なら、もう考える時間はない。「もっと苦しみが軽いうちにやってくれないか」というのが当事者の本音であり、論理的な状況把握に即効性はない以上、個人の努力ではどうにもならない。私自身の経験を含めて参照し、未来の世代の類似性を帯びた問題に当てはめてみれば、いつかの机上の空論がまた一つ増えるにすぎない。現実を生きる当人の関心は、「明日のご飯をどうするか、明日、どうやって生きるか」しかない。

 

 とすれば、社会によって下を向かされるなか、卑屈な感情を強要されるような制限された社会から解き放たれ、自分らしく生きるための手がかりをヒントに、具体的な術を獲得することが何より重要なことは自明である。求められるのは具体的な展望である。ロストジェネレーション取り巻いてきた現実に関する啓蒙により、社会における状況認識及び理解が進展しても、次の日から当事者が四半世紀及ぶ懸念事項から解き放たれ、安心してご飯を食べていけるわけではない。もっとも、ロスジェネがマイノリティーと定義できるかについては、聊か議論の余地があるが、こうした論理の氾濫によって、何らかの生きづらさと向き合っている多様なマイノリティーの現実に根ざした同質の問題、その本質を捉えたとき、状況が再生産されていくこと自体への懸念、その萌芽に対する懸念を問題の中核とすべきではないだろうか。

 

 2021年現在、コロナを契機として時代は混沌としてきている。そうしたなかで、複雑に絡み合った問題を抱えてきた20年前のわたしの、いつかのわたしの系譜が、2021年のわたしに鋭いまなざしで、そう訴えかけてくる。繰り返しになるが、大事なことは分かりきっている。いくら議論が深まったところで、会場を後にした当事者が、ご飯を食べて安眠できる術を、その場で手に出来るわけではない。“明日の一日を健やかに送れるか”シンプルな問題である。就労もその手段の一つに過ぎない。

 

 「生きるために働くのであり、働くために生きているわけではない。」20代、不安定な日々、将来不安を抱えてそんなことを考えていた。時を経て若者と対話するなかで、若い世代のおもいに、それを再び感じることが多くなった。そして、「生きるためにどうしたらいいのだろうか」とふさぎこんでしまうこともある。けれど、「生きる道を創り出すのだ。」わたしたちの仲間の関心も、きっとそこにあるのである。ゆえに、わたしたちはマイノリティーとして孤立し、苦しんでいる人たちとともに、自分たちの手で未来のかたちを創出することや新たな価値観とともに、それが標準となる時のための種をまく実践を重ねている。こうしたなかで制限された選択肢に悩みに、気づいている人たちとともに、“働く”ことを通じて、マイノリティーの可能性を大きく広げることが重要であるとするならば、わたし自身をも含めて課された仕事は、当事者の理解を広げ、差別や孤立をなくす見解を出すではなく、当事者が自立できる具体的なゴールのモデルを創りだすこと、その具体的な方法を模索し、実践を重ね続けることなのだろう。

 これまでの経験を生かして、心の地平線、未来を、可能性を創り出すために。自立へむかえば、やがて差別や孤立はなくなっていく。自由が広がり、気兼ねなく差別や孤立する環境で、我慢する必要はなくなっていく。そんなふうにおもっている。

 「過去をみつめて、やがて未来を創るために」

 

 若者たちだけではない普遍的な問いであると同時に、わたし自身の問いでもある。

 

 2021年、年が明けて2週間が過ぎました。皆様、今年もどうぞ宜しくお願いいたします。


2021年01月14日