無関心な隣人
最近、孤独から絶望へ向かう著名人の孤絶を耳にすることが多い。元KARAのク・ハラさん、元プロレスラーの木村花さん、そして三浦春馬さん、、、。彼らを孤独にさせたものは何か。人との関係のなかで、彼らを孤独へと追い込んだもの、絶望に向かわせた無情の世界に、なにか思うところがあった。ひとが、この世にたったひとり佇んでいるとしたら、孤独という概念はきっと生まれることはない。だが、ひとは他者との関係性のなかで、なんとか生きているのだとすれば、他者の無関心の嵐のなかで、孤独の芽は生まれ続ける。そして絶望に変わる。
三浦春馬さんのニュースで、恩師の一人、教育学者の楠原彰さんの言葉を思い出した。
以下、著書からの引用です。
「私たちには、出会っているのに見えない、見ようとしない隣人たちがいる。日頃目を合わせたり、挨 拶を交わしたりしているのだが、その人たちの内面のつぶやきや叫びに、立ち止まって耳を傾けたりする ことはまずない。街のなかでも、路上でも、飲み屋やレストランでも、電車やバスのなかでも」
「教室で、廊下で、校庭で、学食で……、やさしい顔した学生たちが談笑しあっている。まるで隣に同性愛 者も、在日コリアンも、留学生も、死にたくなるほどのイジメを受けてきた学友も、リストカットで苦し んでいる学生も、ひきこもり経験をもつ人も、一人もいないかのように。」
楠原彰著「学ぶ、向きあう、生きる 大学での「学びほぐし(アンラーン)」──精神の地動説のほうへ」(太郎次郎社エディタス 、2013.3)