共生
共生とはなにか
日本社会では、「暗黙の了解」という言葉や、「あ・うんの呼吸」、「以心伝心」という言葉があります。こうした言葉は、御周知のとおり、あえて言葉を使用しなくても、相手との意思相通が果たせるという意味ですが、欧米社会においては、YES、NOなどの意思表示をはっきりと示さないと、その人の意思が存在しないこととして、取り扱われるようです。ゆえに「そこをなんとか」という言葉は、存在しないのは当然といえるでしょう。しかしながら、日本社会のコミュニティーでは、その場の状況に応じて、「気を利かせる」ということが求められるようです。「空気を読む」といった日常のさまざまな場面で使われる言葉をみても明らかでしょう。なるほど、そうした論理のもとで「共生」していくには、「あ・うんの呼吸」で、相手の状況を把握することが必要なのかもしれません。
ということは、「気が利く」ということは、十分条件ではなく、必要条件として評価を受けることが想定され、「機転が利く」といったような態度を示すことが、まず前提としてあるうえで、「一般常識」という言葉に言い換えられ、いつしか「暗黙の了解」として捉えられて、評価されていくのでしょう。
となると、次に起こりうる事は、例えば仕事の場ならば、「ビジネスですから」という大義名分があるので、「気が利かない」という言葉によって、ただ自分の意思が伝わらないことを、逸失利益であるというように考えて、(例えば、自身の説明が、手を抜いたために分かりにくい、あるいは相手にわかるように伝わらなかったというようなことは考えもせずに、棚に上げて、、、)相手を責める。そうした中で、やれ社会通念上とか、一般常識のない相手であるからとして認識して、「相手のせいにする」ことを、正当化する態度を、当然視してしまうということが、起きうる事態といえるでしょう。そして「共生」に適していないという伝家の宝刀、正義の切り札が持ち出される。こうした恣意的な論理よって正当化され、同質性を特徴とした多数派によって形成されていくなか、数の論理から、”やはり正しい”と確信し、もちろん実際には、錯覚しているだけかもしれないのに、多数派という存在によって、”正しいという安堵”がなされて、それを根拠として“確からしい正当性”が形成されていくのです。
そもそも多数や常識といった価値観が、必ずしも絶対的な正しい価値を示しているわけではありません。それは時代によっても変わり、地域や文化、民族によっても変わる相対的なものであるわけですが、近代的な価値観である民主主義社会において、多数という正義による価値観は、学校教育の影響から「公民的資質」の要素として、つねに意識させられてきました。何らかが、多数の共生意識を阻害する要素として認識されると、”多数派”という根拠によって、それが確固たる地位として確立されて、その論理が飛躍し、マジョリティーの認識を逸脱した態度は、異質なものとして受け入れられた時、とりわけ日本社会では、共同体社会や世間といった和を大切にする文化の中で、ついには排除や差別の対象となってしまうのです。こうした態度には、それぞれの保身や利益も重なり合い、マジョリティー側に立つ“確からしい認識”から、やがて“確からしい正当性”にすり替わり、数の論理の安堵とともに刷り込まれます。
こうした態度の特質を捉えると多様性の発見や、相対的な認識を前提とせずに、物事を客観的に他者的な立場で捉えるのではなくて、主観的に自身のフィルターを通して、”大多数による正当性”によって担保されることで、恣意的に物事を解釈しようとしていることに、疑いを持たない状態となってしまう特徴があります。では、こうした態度を生まないためにはどうすればよいのか。例えば、経験や知識といった自分のフィルターを通して物事を考える際、つねに他者的な視点を前提とすることは、いうまでもなく求められることでしょうか。しかし、人は誰もが完ぺきではありませんから、向き合う側の意識として必要なことは、困難に直面している当事者性について、自分のフィルターでは、理解することが困難な場合においても、多様な価値観を相対的に捉えて相手の立場を聴き、他者の価値観や置かれた立場を尊重することで、相手は何を求めて訴えかけているのかということを意識したり、当事者の困難さの代弁者として何が必要であるのかということを、考えてみる必要があるということなのでしょう。
当事者性をもって寄り添うことは、何よりも必要なことであり、それは、教育、福祉、医療にかかわらず、政治や経済においても、一人一人の価値に気づき、尊重していく態度が求められるのはいうまでもなく、決して掛け声だけでなくて、求められていく必要があるのでしょう。そもそも多様性の受容とはいったい何でしょうか。他者の視点に立つということは、どういうことでしょうか。少なくとも、自分の価値観を一方的に押し付けて、相手の立場を思いやるということではなさそうです。なぜならその物差しが、一度測り間違えば、それはただの傲慢になってしまうからです。そして痛手を負った相手が、必ずしも、苦しい顔をしているとは限りません。だからこそ、当事者の声を聴き取ること、そして当事者性に寄り添うということが必要なのではないかということを、どのように学び取っていけるかということを含めて、今一度、「共生」という時代の前提として議論をしてもよさそうです。
共生とはなにか、共生に適するとされる暗黙の了解を、相手に強制することが、共生の前提となっていないか。
福祉は多様な価値を受けとめるところから始まり、困難を抱える人の立場に立ち、寄り添い、その人らしい生活を実践していくものであり、教育は多様な価値が、さまざまな矛盾のなかで、しぶとくしなやかに生きていくための環境や力を授けるものである、とすれば、それは生きていくための力として、車の両輪のようなものでしょう。そして教育は、たえず変化し続ける社会と向き合い、学びなおし(アンラーン)をすること、それは、刻一刻と移り変わる社会で、生きていくために欠かせない知恵ということでしょう。共生という概念が、現代社会において一般化しつつあるなか、中学校での「道徳」、高等学校での「公共」そして、大学での「人権教育」において、今一度、多様性の進展した社会の在り方について、「共生」という観点から、「問い」として立ててみることが、必要なのかもしれません。そこで多様性について考える前に、「共生」という観点から一度、みえないものみるというテーマ、「問い」を立てて、その後、多様性について考えます。