パラダイムシフト
パラダイムシフト
近日、安倍内閣の発令による東京、神奈川、千葉、埼玉、大坂、福岡など大都市圏を対象とした緊急事態宣言発令から10日が過ぎました。その後、全国へ拡大したこの宣言の背景は、ご周知の通り、既に都市部を中心としてコロナ疎開が始まるなかで、地方の医療インフラの医療崩壊を念頭に、感染拡大の影響をゴールデンウィークの移動に際して、最小限に食い止めるための自粛を促している宣言だといわれています。こうした中で、働き方の根本が問われ就労のあり方とは、これからどのように変わっていくのかということを根本的に問われているのかもしれなせん。
本来、医療や福祉の現場はもとより、社会的なインフラを維持させている人たちを除き、ロックダウンをするべきであると個人的にはおもいましたが、それを果たせない要素として資本主義社会と民主主義体制があるという見解があることは、報道などでご周知の通りでしょう。今回の宣言の効果の見極め、及び見解について、今後の福祉事業所の運営の責任等において、直接的に影響を及ぼすものであるため、事業者としても次の判断を迫られる場面は、ゴールデンウィーク明け、新たなフェイズを迎える中で起こりえるとかんがえています。利用者さんの安全をどのように担保するかがプライオリティーであり、判断材料として、福祉関係者、医療系関係者、歴史、社会
教育分野関係者の専門性の見地から、密に連絡(テレワークで三密ではない)を取りあい、メールや電話などで、知見に基く現状分析と意見交換を行いました。辿りついた見解としていえることは、これまでの政権の政策過程を分析すると、民主主義と資本主義の掛け算による弱点が露呈しているのではないかという意見が多くありましたが、民主主義体制で、強制的な措置はできないという特質として、自分を律した成熟した市民のあり方、行動によってなんらかの事態の方向が決まるという観点です。現在は経済活動の自粛要請によって、休業と補償のセットは難しい問題となっていますが、現実的に民間事業者は、生活や生存のために、経済活動を遮断するための担保、補償がなければ、経済活動は続けざるをえなく、生活のためにやむなく乗る満員電車は、その証左といえるでしょう。
COVID- 19に関しては、アメリカをはじめとして様々な調査が今後行われるようですが、初動段階においてWHOと結託し中共の意図的とも言えるような隠蔽によるものが、世界中に蔓延した被害として重要視するべきであろうという意見、事態が落ち着いたら欧米を中心に糾弾されることになるという意見がありました。意見交換した医療関係者からの話では、COVIDー19との戦いは、治療薬やワクチンができるまでタイムラグあるため、いつ終戦を迎えるのかという見通しはたたないなか、みえない敵がいつ襲うか分からない不安のなかで、民間人を巻き込むものであるという指摘がありました。ハーバード大学などの研究によれば、2022年までこの戦いは継続されるという話もありますが、約8割のアメリカ国民が中国の責任を糾弾する様相を呈しWHOへの拠出を停止する事態となる中、欧米諸国による中国に対する賠償問題、訴訟にまで発展しており、2018年からつづいてきた米中貿易戦争の次なる段階の戦いに入っていくという連続性という視点についての指摘もあがりました。
経済・経営などを専門とする人の見解では、1929年の世界大恐慌をはるかに上回る規模で起こる可能性が指摘されていました。実体経済のカタストルフは、リーマンなどの金融経済の危機とは根本的に質が違うものであり、モノ・ヒト・カネ需要の喪失であることの重さは計り知れないという指摘があり、戦後の歴史教育を専門とする立場では、未知のウィルスの前で、医療体制は崩壊、結局、国は守ってはくれないし、自衛が重要であり、自分の身は自分で守るしかない。その意味であっけなかったセーフティーネットとしての信頼への懐疑性、という印象がについて複数の同意が寄せられました。平和な日本とは、もはや幻想であり過去であるのかもしれません。ゆえに新しい時代に対応して生きていかなければならないのではないかという意見は総じてあって、政権は国難をなんとかしようとしているけれども、医療、検査体制の崩壊、マスク二枚、すずめの涙の給付金などをみても、必ずしも生命が守られないということは、今回のコロナをめぐる中で顕在化しているのは自明なことであり、ゆえに国にあまり期待をしてはいけないのではないか、一人一人が社会を考えていかなければならないのではないかという意見がありました。とすれば、国のあり方、憲法や安全保障のあり方を、これからの日本を背負う若者たちが、今一度しっかりと考える時にきているのかもしれません。何が足らなくて何が必要なのか。戦後教育が新たな段階にきていることは自明なことでしょう。米中という強大な国のなかで、日本をどのように守るべきかという意見が総じて多く、大きなパラダイムシフトが起こる中で、生命の危機に晒されているからこそ、自分のこととして受けとめられるのではないかという意見がありました。
確かに念仏のように平和を唱えるだけでは未来に無責任であるし、具体的に平和をどう維持するか。平和を訴え、戦争の悲惨さを学ぶだけの戦後教育の限界点は明らかでしょう。平和のために争いがうまれる根本、本質に切り込まなければならない。なぜ差別や格差やいじめはなくならずに、人類は悲惨な過ちに向かっていくのか。平和は如何にして崩されていくのか、その要因はなにかを追究する姿勢が必要であり、逆説的に平和を維持する方法を見つけ出していく作業が、よりいっそう必要なのではないか
。平和とはなにかという根源的な問いから、平和的な社会はどのように作り維持されるべきかという社会や政治に関する関心が重要なのでしょう。平和を維持するために、多様な価値観を尊重すること、他者のことを想像して、その人と、その周りにいる人たちの平和をどのように維持するかということ、それはきっと人の英智を結集して、強制力のない緊急事態宣言を一人一人がどう受け止めて行動していけるかということに他なりません。人と人とがウィルスの撲滅のために協力すれば、ウィルスは宿主しなしに生存できません。自制心、他者的な視点で行動できるか、それはいじめや差別の撲滅と同義であるかもしれません。人種、性別、年齢、価値観、生き方が違っても、協力できることはある。いじめや差別、格差の蔓延する社会で、その潜在力が試されているのかもしれません。
2020年04月19日