半沢最終回 正義の鉄槌
今週の半沢直樹も面白かったですね。聖人の顔をしたアウトロー(箕部幹事長)の所業を成敗する怒涛の展開でした。昔でいえば、大菩薩峠もそういうネタでした。そんなわけで今日は正義、社会における法(ルール)について考えます。
さて、社会生活営む国家の構成員は、「人に迷惑をかけない」という当たり前の概念の下、日々生活を送っている。法は秩序を保ち、法治国家の根幹を成す。市民は取り決め、契約よって他者の人権を互いに保障する。つまりルールの遵守は、近代市民の要素の前提となっている。
社会科教育学では教育の側から「公民的資質」という概念の下、未来の近代市民、子どもたちを育てている。学校は成熟した近代市民の一員の形成を担うが、このように社会契約説のもとにした民主主義の根幹を担保するものがルールの遵守である。しかしルールは破られることもある。半沢直樹でいえば、強大な権力を司り、(本来、国民の公僕であるにもかかわらず、尊大な態度でいる箕部幹事長のように)人類の英知=人びとが一定の取り決めの下で幸せを享受するための法、契約を捻じ曲げようとする向きが、どのコミュニティにも一定数存在している。彼らは、手前勝手な恣意的な論理を押し付けるための材料の粗捜しがライフワークなのである。
例えば、半沢直樹に登場する箕部幹事長である。箕部に象徴されるような聖人の仮面を被ったアウトローな人物は、得意技の土下座に象徴されるように手段を選ばない。職務怠慢、職権乱用、彼らの所業を表現する言葉はさまざまであるが、彼らは自分たちに都合の悪い証拠や発言は捻り潰し、傍若無人に反故、捏造を繰り返し、あの手この手を尽くし、ああいえばこういうという風に自分の立場を押し通そうとすることが特徴である。箕部幹事長や紀本常務らを中心に半沢直樹のストーリーを捉えると、帝国航空の問題でも謀略のために、周到に根回しをしている様子がこれまでの回でも度々みられるが、そこでは何らかの甘いニンジンに惹きつけられ、自分の立場に有利に立ち回ろうとする小さかしい仲間たちとともに奔走(暗躍)していく。
彼らの特徴は、何らかの要職で必ず正義を振りかざす大義名分を持つ立場にあり、本質的に社会的に信用や名声、権力を内在させている。そうなると、つい人格も伴っているものだと錯覚しがちであるが、裏でルールを破り、事実を捻じ曲げて私腹を肥やし、自分の立場に有利にするための主張を通すための策略を立てている。例えば古典的戦法として、一見もっともな理屈を駆使し、自分たちに不利な論点に及べば、巧みにすり替え、相手の失点を突くという手法を取るといったように、もはや社会の構成員、人として反模範的な人で、彼らは被害を与えているという自覚、贖罪の意識は皆無である。自分たちに有利な大義名分を捻り出し、正論を展開されれば開き直って非論理的に、保身に奔走する。ここまでいってしまえば、正義の楯の前でもはや完敗だが、箕部幹事長や紀本常務のように最後の悪あがきをする輩もいる。だが皮肉なことに、彼らの真の目的は隠せない。目的に向けた論理を必ず展開しなければならないからである。結果に向って一連の物語を始めなければならないからだ。稚拙さや巧みさなどの手法の差こそあれ、恣意的なストーリーの恣意的なハッピーエンドへ向かう過程が、皮肉なことにゴールの位置を正確に指し示し、ねらいが自ずと露呈してしまうからである。みえないものをみるためには、なにか特別なことをする必要はない。不誠実が勝手に飛び込んでくるからである。誠実さの反対に対峙するものは不誠実である。あとは他者に証拠として証明するのに必要なのは渡真利のスマホくらいである。相手が信用に値するか否かを測る物差しとしては最適である。
さて、こうした中で置いてきぼりとなり、人知れず苦しんでいるのは一体誰なのだろうか。何事もしわ寄せが必然的に弱いところへと向かうことは世の常である。こころない不法さ、職務怠慢、職責放棄の集積、正義に背き、答えが分かっていても動こうとしない現実世界の所業においても、箕部や紀本などと、その取り巻きのようなこころない人たちは、この世に一定数存在し人々を傷つけている。しかしそれは、半沢直樹とその仲間たちのような正義によって、やがて駆逐される時代がくるのかもしれない。パラダイムシフトは、正義、公正のポピュリズムを欺くことができなくなる段階でいとも簡単に瓦解してきたことは、いつか来た道を辿れば自明なことである。(例えば、東欧革命など20世紀末の世界史がそれを証明しているだろう。)社会現象と呼ばれるような同作のヒットは、そんな矛盾に満ちた社会への、他でもない人びとの心の中に充満する矛盾への総意にすぎない。
半沢直樹の直面しているような幾多の試練を、私自身、法人に置きかえると感じることはよくある。それにめげても仕方がない。渡真利や黒崎のように応援をしてくれる人たちもいる。どの業界でも同じである。そうしたなかで半沢のように、企業は常に全責任を持って人々を守る覚悟が問われていることは自明な事である。私自身、何らかの矛盾に直面することは多々あるが、現実的に矛盾に満ちたこの無情な世界で、半沢のように一時間で華麗に痛快に解決していくことはできないが、あらゆる理不尽さにたいして決して諦め、屈することはない。この矛盾に満ち、そして無秩序で理不尽な社会の荒波で、数多の矛盾を感じているすべてのひととともに、私たちは真摯に懸命に生き抜いているからである。
正義の法が私たちの生活を守っている。
来週は半沢直樹も最終回、個人的に、中野渡頭取がどんな行動を取るか楽しみですね。