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最適解
わたしたちは日常生活において様々な物事、刻々と変化する状況に対処する際、各々が得意な分野を活かすことで、不得意な分野を補い対処しています。その解決方法は十人十色、そして各々の個性に由来しますが、様々な物事を一人で、しかも同時に、パーフェクトにこなしていく事はなかなかできません。しかし一般社会において、こうした個性に由来する問題が起こると、当事者において生き難さとして内面化されることがあります。このような問題は、社会のプロトタイプである学校社会ではもとより、多様な個性の行き交う一般社会においてより鮮明に現れて、当事者の抱える困難、課題として顕在化してきます。
こうしたなか、定型教育において起こる想定外の課題ついては、いつ誰もが直面する問題として取り上げられ、様々な場において、解決すべき教育方法をめぐって多様な議論が展開されていますが、それはある程度、解決の道筋として経験、知識、常識や暗黙の了解などによって、一般社会における常識ないし、多数の利益に適うゆえに、共通の認識内で処理されることで、自身に関わることとして議論が深まり、大多数の問題意識の共有がなされて、最大公約数的な状態、母集団の規模によって、マジョリティーの関心を引き寄せて解決に向かうものです。ただ一方で、想定外の課題が、多数の知識、経験、承認の範囲外にある場合において、多くの関心を引かないまま、議論は深まらず、適切な知識、認識は共有されないままで、結果として無関心、誤解、偏見のフィルターを通して、適切な共有がなされず、当事者性の欠いた”確からしい解答”だけが増幅されていく可能性があるとすれば、どうなるのでしょうか。それは当事者を取り巻く現実的なハードルによって、困難に直面している当事者は、非当事者による何らかのバイアスに由来する無関心、無理解等に起因する二次的な課題に図らずも直面させられてしまうことで、固有の困難さが、より増幅されて引き出されてしまうことが想定されます。
こうした問題にたいして、教育学分野、とりわけ学校社会では、どのように向き合っているのでしょうか。例えば、中等教育では「道徳」が教科化されました。高等科では「公共」という科目が新設されています。。そして福祉学分野では「合理的配慮」に基づく人権意識に関する研究の進展、人権意識の高まりによって、マイノリティーへの関心は日々高まってきています。ただハードとしての価値観、概念的な枠組みとしてみると、なんとも脆弱であるという感覚が拭えません。というのも、例えば、インクルーシブ教育、ユニバーサルデザイン、ソーシャルインクルージョンという言葉がありますが、これもまた、先述のように、実質的にソフトの課題に置き換えてみれば、一般社会での様々な障壁、とりわけ非当事者におけるバイアス等が内在していく性質の問題として、母集団の規模から、非当事者性における恣意性に基く見解、価値観が形成されやすい土壌があるという前提と、そのマジョリティーを代弁する機会や場が無数にある以上、各々において、きわめて恣意性の高い意識として内面化されることで普遍化され、やがて概念的に共有化されていくものとなりますが、そのベクトルが大きいものであるとすれば、”確からしい解答”が常識となる可能性を秘める、極めて大きな問題といえるでしょう。
そこを乗り越えていく方法は、常に他者的な視点に立ち、正しい知識によって理解していく経験を積み重ね、その努力を継続していくことなのですが、先述のように、こうした多様な個性によって表れる個性豊かな事象に対して、他者的な理解、及び知識の欠如によって、理解の促進のための判断材料が乏しいなかで、各々の固有の経験にねざした先入観、一般常識といった物差しが先行し補完されてしまえば、情報化社会に進展とともに、不正確で断片的な情報による安易な認識は、容易に拡充される環境とも相まって、たとえそれが意図せざるか否かは別としても、やがて”漠然とした確からしい最適解”が形成されていくことは自明であり、こうなると、当事者的な視角は、適切に形成されずに、”最適解として疑わないバイアス”ばかりが一人歩きして、その母集団が大きいゆえに、実態を反映しない最適解が、相互作用によって増幅されて生み出されることになります。
もっとも、ハードとしての掛け声の充実や進展が、結果として、それが大事であるということの意味において、おおいに意義があり重要であることにはいうまでもないことです。ただ普遍的に当事者性を含有する視覚まで共有されて、網羅されることは、決して担保されていません。ゆえに上記のスローガンの先行した枠組みの設定の持つ意味として、共通認識の特質が極めて恣意性を帯びた脆弱な環境において、フライング的に理念的なハードを持ち込む事で、非当事者的な視覚の欠如ないし脆弱性によって理想的な形で機能しないまま、暫定的で演繹的に最適解が示されることで、困難な問題は形を変えて増幅され、新たな問題を引き起す芽になるのではないか、ということが懸念されるのです。
以上のような視角に立てば、正確性の欠けた多数的な共通認識と、様々なバイアス等のフィルターを通過するなかで、教育学や福祉学などの分野において向き合うべき喫緊の課題として浮上するのは、非当事者において、具体的かつ現実的にどのように、他者的視点の重要性に気づき、隣人の困難に向き合い、そして他者を巻き込み、他者的視点で共生に向かうために、そうした土壌を普遍化し、醸成していけるのかという事になるでしょう。次回は、共生について考えます。