侵食
普段、他者との関係性の希薄化した社会に埋もれ生きていると、日々の色々な感覚が、何時の間にか過去の価値観へと侵食し、無意識に近い形で置き換わっていることに、はっと気づくことがある。私はセブンイレブンにいくことが多いのだが、コンビニの最先端でどのようなものがヒットしているのかを改めて意識しないまでも、生活の価値観として少しずつ、無自覚的に侵食されているようなそんな感覚である。商品開発部からみればしてやったりといったところだろう。例えば、チューブの大根おろし、鮭の切り身、冷凍のとろろから進化してパックのとろろ、と便利さの極限ともいうべき商品が、めまぐるしく変化するニーズの要請によって“所狭し”と日々進化し陳列されている。ことばで表現するならば、“煩わしいものが煩わしくないものへと刷り込まれていく”というようなものである。もっともコンビニエントは「便利さ」という意味であるから当然の帰結で、新たなスタンダードとなることへの肯定的な要素は多いが、その点ではプライバシーの保護、個人情報保護法、携帯電話の普及、パーソナルを充実させるための理想的な概念を具現化していく数多の過程と同様、人と人、点と点を繋ぐソリューションの発展は、市民の権利の伸張を実現し、文明的進化、科学技術の恩恵によってもたらされている帰結として捉えられる。
しかし、こうした事象を、就労のあり方に関連させて位置づけてみると、必ずしもよい面だけがクローズアップされるのではないことに気づく。便利さを求める背景として、便利さが求められるのは、言い換えれば、“なんらかの余裕のなさ”から派生している”起源の要請”、つまり時代の宿命としての産物であり、そしてそれを構築し維持している人たちがいることを意味する。
そうした“なんらかの余裕のなさ”は、一体どのあたりに起因しているのだろうか。それは、今から四半世紀前の1995年5月、経団連によって発表された「新時代の日本的経営」の報告以後のベクトルによってその概観を回顧することができる。それ自体を今更、時代の後知恵として改めて再評価する必要もないが、“柔軟な雇用を生み出すための装置”としての機能については、これまで多くの先学が指摘されている周知の事実である。ただし「柔軟さ、多様性」といった記号によって象徴される新時代の価値観が洗練されていく過程について、それらをよい意味で肯定的な価値観としてみることはできる。例えば福祉用語などで代弁するならば、「ノーマライゼーション」、「ユニバーサルデザイン」、「ソーシャルインクルージョン」といった、市民社会における未来への希望、その前提である普遍的な価値を示すような記号に置き換えられることも可能で、そうした価値は“人権意識”の高まりとともに、多様な生き方の尊重、ライフスタイルの“多様性”といったことばとともに、時代の先進性として収斂されて、昇華されていくことは自明なことであった。
こうしたなかで、就労分野に焦点をあててみると、否定的な意味合いも含んでくる。非正規雇用の増加については、「半沢直樹」で記憶に新しい池井戸潤の「ロスジェネの逆襲」でおなじみの氷河期世代を中心に、いわゆる「フリーター」なるものが、この時期に増加したが、当該世代を「雇用の調整弁」として機能させたのは、柔軟な雇用であり、多様な雇用のあり方であった。否定的な記号として用いられることになる「柔軟性」や「多様性」は、こうした文脈においては、こころない新自由主義の体現者たちによって、結果として、当時の若者たちは低所得と不安定な身を余儀なくさせることになった。時代の絶対的ルールが、“多様性の尊重”という言葉へとまろやかに浸食し、多様なライフスタイルの一つの帰結として、たとえば「未婚、非婚、晩婚化」というような言語化がなされ、さらには「おひとりさま」など現象を肯定化するように派生した多くの言語化によって表現されるようになる。かつて、「年頃になれば結婚するものだ」というような従来型の価値観の変化は、あたかも“若者たちの文化や価値観によってもたらされた”ものであるかのように錯覚しがちであるが、原因の帰結としての結果群、相対的な実態に視点を移せば、作為者たちは、希薄化した社会をうまく活用して格差をつけ差別化し、無作為にみえる作為により他者を虐げる状態を、時代を創る神が導く道理とでもいうように、無関心の集積へと追いやることによって、その恩恵を預かる向きを代弁する数多の「御用達学者」たちによって強化している。
経済学者の森永卓郎氏が2003年に「300万円時代を生き抜く経済学」を出して半信半疑のようなインパクトでもって話題になったが、2020年には「200万円時代でも楽しく暮らせます」とされている。彼は、”時代の兆候”を的確に捉えて、弱者をさらに追い込む象徴的な状態を代弁しているといえよう。これに対して作為者たちは、不満をより下方へ平準化するために受容限度を徐々に下方修正し、消去法的に模範解答として示していくので、みな価値観の変化を余儀なくされ続けている状態にあるといえる。こうした論理は、不景気の時代に突入するやいなや、正当性を主張するチャンスとばかりに過去の時代では、いつのまにか“自己責任論”というキャンペーンが張られて既成事実化し、そうした論理的帰結によって「勝ち組、負け組」という言葉が自然な形で生み出された。そしていつのまにか”疲弊したなにか”として選択肢はないまま強要され消化されていくという流れである。
人間関係の枯渇した現代社会において、人々を覆い尽くす疲弊した諦念、余裕のなさ、焦燥感、ルサンチマン、やり場のない感情の数々、そして、外への感情だけでなく、内に向かうのやり場のない感情は、やがて自身を傷つける行為へと昇華することもある。それらは、時代への悲観とともに連鎖的に、時が経過するなかでひっそりと増幅していく。誰でも未来のみえない絶望の淵に置かれれば、ひとは孤独に苛まれて孤絶へと向かうことは、至極当然のことである。青天の霹靂ともいえるコロナの時代の到来によって、先がみえない状態がつづいているなかで、相次ぐ芸能人の自殺に向かうものが、それぞれの固有背景に由来するものであるとしても約すれば、そうした未来への絶望の象徴、証左として増幅されて起こっているようにも感じられるのではないだろうか。
斯様な状態を強いられている人たちは、歴史を参照すれば、いつの時代においても存在していた。例えば法律家でブラジル人の教育学者であるパウロ・フレイレは、「制度化された身体」として警笛を鳴らしている。それに打ち勝とうとするフレイレの実践は、その後、大資本家のご機嫌を損ね、国外に追放されてしまうことになるが、関係性の希薄した社会でも、フレイレのように誰にでも届く“放されない手”はきっと存在する。それがたとえ巧妙に、それに出会うことを妨害され、意図的に妨げられているとしても、必ず、みている人は存在するものである。ならばこそ、このコロナの時代、芸能人や音楽人の訃報が相次ぐことで象徴される社会において、絶望の淵のなかで、明日への希望を届けるために、一体なにができていないのかということをやはり意識しなければならない時期に来ているのだろう。就労のあり方を通じて、「働くとは一体なにか」ということ。日々便利さのなかでみえにくいもの、それが実現されている向こう側において、なんらかの諦念が渦巻き、疲弊し閉塞した社会の点と点では交わらない世界の潮流を、少しずつでも捉えなければならない時機に来ているのではないだろうか。
従来的な働き方の受容、あるいはそれへの無意識的な侵食は、そうであるべきであるという刷り込みによる制度や固定観念によって当然視され、その被害に気づくことも少ない。いいかえれば、それ以外の選択肢を合法的に奪われ、未来への可能性を限定され、最初から除外されて「制度化された身体」として実を結ばされている。疲弊し閉塞した世界の内実は、こうした矛盾が縦横無尽に張り巡らされ、侵食されることで実現された虚数的な世界と同義であるといえるだろう。
FRは、柔軟な労働観を通じて、新たな働き方や心のあり方をもとに、この時代をしぶとくしなやかに乗り越えようとする未来におけるコロナ時代の先駆者とともに、新たな時代に対峙するために、従来型の矛盾に満ち限定された価値観に侵食されないように、未来のためのアイテムを増やすためのアシストを行っている。