自立に向けた支援とはなにか。

 支援と一口にいっても、万人に応用できる理論的な支援はなく、支援する側にとって、知識や学問は、その状況を知るための羅針盤でしかありません。しかもそれは本格的な支援に入るための入口ですらないのです。支援の入口とは、困難さがなにかを探す中で対話し、考え、問題を共有しようとするところか始まるとして、とりわけ、日々多感な年代の20代の方々と接していると、元来彼らは個性豊かで才能に満ちあふれ、けれどきっかけがつかめないでいるという状態ですから、日々、彼らをどのようにして、社会の入口に送るかを日々考えて支援を実践していくのです。旧態的社会では、右に倣えとばかりに最大公約数的な発想を前提として、全教科及第点という発想が求められる。戦後教育、管理教育の悪癖ですが、これはよさを消す能力とでも言い換えられるかもしれません。個性や才能が花開くには、一朝一夕には開花しないものですが。余裕のない及第点社会において、豊かな個性や才能は潰され、入口にたどり着く前に、呼吸を荒くしていては、呑み込まれてしまうことになってしまいます。もっとも何らかの余裕さを身につけて、おずおずと挑み続けることが、おそらくはこの厳しい社会では必要ですが、ここはしぶとくしなやかにこなすタフさが必要となるには、まだ若さもあり、挫けてしまうことはよくあります。そうした中で、必要なキーワードとは自己有用感であります。もっとも成功体験の積み重ねだけでは、ヒトとしては、薄っぺらいものになってしまうでしょう。困難さや孤独を噛み締めながら、それでも一歩踏み出せるか、自己肯定感を積み上げる地道な一歩一歩は、自分だけの経験です。しかし一方で、この時代、多様なあり方を受け入れている社会もあります。就労においてもその限りではなく、フリーランスで生きていくという選択肢や、資格を身につけてじぶんらしく活躍していくことも可能なわけです。社会であわせなければ、居場所はないと考えるのではなく、社会にあわせなくても、自分のやり方で生き抜くというのもありなのです。もっとも、努力だけしていればいいとか、一朝一夕に答えや結果が出るものではないですが、、ただ時代の価値観は変わり続けています。その分チャンスもあるといえるでしょう。例えばコロナの影響でテレワークが推奨される現在、在宅勤務という選択肢や人と係ることの少ない仕事というものも、働き方改革や仕事の多様化によって存在感を拡大させています。

 

 一方で旧来的な社会とはどのようなものでしょうか。近年はとりわけ権利擁護や、人権意識が叫ばれるものの、一方で、90年代後半から雇用の調整弁とした就職氷河期世代、日比谷派遣村をつくりだしたのも歴史が証明する事実で、自分たちのことさえ守られればよいという総意が、50-80問題を引き起こし、この社会の未熟さを示す負の遺産となっています。つまり社会は常に未成熟であり、気まぐれであり、完全ではないものであるという証左といえるでしょう。最近の事例を挙げると、コロナ問題での行政や政治の向き合い方は、場当たり的な感じで、東京都の小池知事の対応をみていると、オリンピック延期後の感染者の増加、数字のマジックともいえる意図的な暴発は、何らかの利権のために生命を犠牲にさせようとする意図にさえ感じるものでありました。こうした事例を通じて考えると、若者が目指す社会とは、自分勝手な未成熟な人びとが構成している共同体ともいえます。ならば社会とは、そこに参加しようとしているマイノリティーの方の足かせで、社会自体がマイノリティーの方の障壁であるといえ、自立を阻む障害物であるかのようであります。そうしたなかで自立とはなにか、自立はどうあるべきかを考える必要があるのではないか。社会が必ずしも平等で絶対的な正義なわけではないのは、差別やいじめ、格差は助長し貧困はなくならないことがその証明となっているし、自衛しながら自立する。そんな視点も支援に反映していくことが求められる時代となっているのかもしれないのではないでしょうか。

2020年03月30日