みえないものをみる
無作為という作為
福祉分野では、おそらくは知らぬものがいない著名な「自己実現、エンパワーメント」という概念。この概念は、1970年代に日本の教育学界に登場し、やがて福祉界にも浸透していきました。この言葉の由来は、ブラジルの教育家である パウロ・フレイレの実践から生まれたもので、筆者の恩師でもある教育学者の楠原彰らによって輸入・翻訳され、今から40年前に日本の教育学界に紹介されました。その彼の言葉の中で、印象に残っているものとして「孤絶」という概念があり、「知った以上は関わってゆく」という人生哲学のような言葉がありますす。そんな言葉に関連して、今回はみえないものをみるという「問い」を立て、ある詩人の言葉を紹介いたします。
「だが、どこかで一縷の臨みをかけ、真夏の蒸し暑い夜もまた、どんよりとした真冬の空の下で、ぽつんと、きっと誰も気づくことはない。いつものことは、いつのまにか雑踏の中で、何度叫んでも、何事もなかったように掻き消されてゆく。また、ひとつ諦念が増幅する。すれ違う大人たちの笑い声が聞こえる。何事もなかったように日常が過ぎてゆく。」
いうなれば四面楚歌な状態といえばよいのでしょうか、いや違う。どうもしっくり来ない。結果的には、そうみえますが、これは適切な表現ではなさそうです。なぜなら、四面を見渡しても、誰も楚歌を歌っているようには、表面上はみえないからです。しかし、みえないけれど、なんとなく四面で楚歌に囲まれているような気がしてなりません。そのあたりにクローズアップすると、きっと「何事もなかったように」というのが、この詩のポイントでしょうか。聴こえている声が「いつも掻き消されていった」そんな感じでしょう。誰も気づいていないのではなく、気づいた上で、気づかないことを装う。いいかえれば、それは“無関心の暴力”あるいは“大人の事情”によって、何事もなかったように過ぎてゆかされる日々といえます。偶然や自然の流れにみせかけられた、無作為という作為、おそらくそんな感じで間違いないといえるでしょう。こうしたケースを想定すると、四面楚歌な状態であるというより「いじめ問題」の研究の第一人者で、社会学者の森田洋司氏の提唱した概念「いじめの四層構造」の外側の聴衆の位置にいるような人たちに囲まれている状態のようであるという解釈がしっくり来ます。
「いじめの存在」に気づいても、気づかないフリをする傍観者たち、心ない無関心たち、これが孤絶、isolationを生み出す構造の本質といえるでしょう。こうした状況を強いられている人は、いたるところで苦痛を感じ、疎外を強いられ、周囲の無関心のよる、組織的な力によって魂の叫びは、掻き消されてしまう。かかる状況は、個人の人権、尊厳を著しく傷つける行為であり、到底許されることではありませんが、こうした周囲に囲まれてしまえば、事態が発覚するのは至難のこと、日大のアメフト事件のように、内部の既得権の壁に阻まれてしまいみえにくいという構造的な体質が想定されます。ということは詩人のケースは、個人の選択性の及ぶ「孤独」ではなく、教育学者である楠原氏の言葉である排除された状態への悲観、「孤絶」という表現がしっくりくる気がします。ただもっといえば、これは仕組まれた「孤絶」であり、社会においては、そんなことがいつまでも、許されるわけはありません。
日本語には、誠実に生きた先人の知恵として、「因果応報」という言葉があります。例えば既得権の保護を優先するために、無作為にみせかけた作為のある傍観者、無関心たちには、それ相応の結果が訪れることでしょう。声をあげ続ければ、必ずいつか届くものです。抑圧下にあるからといって決して諦めてはいけません。ドリカムの歌にありました「何度でも」という歌、そんな心境が大事です。支援者たちは、みえにくくされているもの、みえないもの、みえない問題の芽にいち早く気づくかどうか、それが問われています。背後に隠れたSOS、その本質を的確に、しかも迅速に捉えられるか、そして行動できるかどうか。支援者において、それは必要要件ではなく絶対要件としなければならないことです。次回は、多様性について考えます。