いつかの日常
休日、研究資料や文献の整理を行った。書庫整理日を設けて定期的にやらないと資料で山済みになってしまうので、〆切の納期が迫っている案件を優先しつつ、ひまをみつけて取り掛かっている。荒井由美の「卒業写真」を聞きながら書庫を整理していたら、偶然、高校の卒業アルバムに遭遇した。埃を振り払いページを開いたら、懐かしい顔と再開した。本日は誠に私事ながら、高校時代の思い出がよみがえってきたので、10代の頃、自分自身が何を考えていたかふりかえって、記しておこうと思う。高校卒業してからもうだいぶ月日が経った。第一志望に合格できず投げやりだった高校一年、イギリスのロックバンドの「The Who」を聞きながら「明日こそは辞めよう」と思っては先延ばしにし、中学の友達に影響されバイクの免許を取ろうとしていたある日の下校時、自販機の前で止められたバイクの友達の後ろでジュースを飲みながら跨っていたら、先生に遭遇して一週間の停学となったことがあった。学校はバイク通学禁止、もちろん自分は免許もなく、徒歩での通学で乗って来たわけではなかったが、後ろに跨っただけで停学になった。乗っていないことを証明できず、連帯責任となった。理不尽だったが、あの時、なぜ抗議できなかったかはわからない。何から何まで投げやりだったのかもしれない。その後、学校とは意図的に距離を置いた。中学の友達や他の高校の友人とバンドを組んだり、一緒に過ごす時間が多くなっていた。受験生になると代ゼミに通い、予備校のない日は一人で勉強しているほうがいいので、近所の地区センターに通い、土曜は自主休校にした。その頃、遅刻は年間で100日は越え、欠席も40日近かったことを覚えている。学校に一番遅く行き、一番早く帰ることを日課としていた。だが、そのように学校が嫌いな私がやがて教免を取り、院に進学し教育学の研究へと向かうことになる。人生は分からない。
あの頃の仲間たちは、いま元気にしているのかもう分かる術はない。携帯のなかった時代、いつしか日々の生活に追われ、それぞれが互いに違う人生を刻んでいくなかで、連絡先が分からなくなってしまった人もいる。高校三年の夏、今はなき渋谷の「GIGANTIC」というライブハウスで、高校生活最後のライブをしたことがあった。鮮明に覚えているのは、高校三年の夏の最後のライブの帰り道、東横線の武蔵小杉駅で、ライブをみに来ていたクラスメートが体調を崩したことがあった。降りる前から気にかけていたもう一人の友人が心配そうに、電車を唐突に途中下車したシーン、楽屋入口にあった真っ赤なコカコーラのベンチでのやりとり、楽屋ではなく客席を通って上がる小さなステージ、26年経った今でも覚えているのはこれだけである。あの日、何の曲を演奏したのか分からないし、他にみに来てくれたひとがいたはずだがまったく定かではない。今となってはもはやどんなメンバーがいたのかすら定かではない。元気に過ごしているのだろうか。意外と記憶に残っているのは、いつかのいつもと変わらない日常の一コマだったりする。
バンド活動は惰性でやっていてもしかたがないし、すでにライブハウスで活動していた友人たちのバンド活動に触発されて、自分たちは新人バンドの登竜門であるホットウェーブという音楽イベントに出場することを目標にして練習に励んでいた。バイトのない日は学校から帰ると、ピアノに向かい、スタジオではドラムを叩き、仲間とオリジナルの楽曲を製作していたが、メンバーチェンジを繰り返し、中々落ち着いて活動ができなかったバンドも結局、メンバーが受験時期を向かえ一旦休止となった。友人のバンドは約一名の受験者をのぞき続行した。(その友人は大学で福祉学に進み、やがて中央法規から本を出版するまでになる。)他のメンバーは進学しなかったが、のちレコード会社と契約してプロとなった。そんな中、自分はやりきった感もなく、時間切れのような感覚で、後ろ髪を引かれながら納得させ、中途半端なまま封印して大学受験へと向かった。それからは勉強漬けの日々を送ることになる。以降の記憶はほとんど抜け落ちている。インディーズからCDをリリースし、メジャーからも声がかかってライブハウスで活躍する友人を尻目に、バンドが復活することはなかった。
そうしたなか、将来、学校の教員を目指して北教大に進むつもりだというバンド関係の知人に影響されたのか、「それなら自分も」と、おぼろげながら教員の道を志した。今思うと、これが転機だったのだろう。しばらく経った頃、理由を思い浮かべて、「なぜ教員になりたいのか」と自問した時、「嫌いな学校に通う生徒に寄り添えるような教師がいたら、、、」という答えが浮かんだ。私の原点にあった感覚は、私自身の理想を求めたのかもしれない。ゆえに普通に学校の教員になろうとしている人とはどこか違っていたはずである。私のように学校によい思い出があまりないというのは、全体からみたら少数派であろう。自分の居場所ではないとして心を閉ざして、正確には馴染もうとしなかっただけなのかもしれない。そんな折、山田洋次監督の「学校」という映画をみたことがあった。「こういう世界もあるなら、辞めてしまうのもありだったのかもな」と卒業してからふと思ったことがあった。その後、「古狸」のような教員は心のどこかでひっかかり、定時制で教育実習を志願することになる。一方で音楽、曲作りはこれまでずっと続けてきた。音楽を封印した高校三年の夏のライブから、いつか復活する時が来るかもしれないとおもって作り続けたのかもしれない。音楽は、あの頃の私の系譜、そして原点であった。そして時を越えて原点であり続けている。あの頃に作った曲を久しぶりに弾いて、そして、あれから止まったままの音を取り戻すために、そしてこれからも新しい曲を作るだろう。
A man is not finished when he is defeated. He is finished when he quits.
(人間、負けたらおわりなのではない。やめたらおわりなのだ。)byリチャード・M・ニクソン